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史上最高の投手

プロ野球開幕

セは2試合も無安打試合が生まれそうだった

日本には素晴らしい投手が多い

野茂 松坂 ダルもそうだ

江川もすごかった 

槙原 の完全試合も覚えている

バースを抑えた リリーフの 角 もある意味すごかった


でも自分が見た中で最高だった投手は・・・


伊藤智仁


ダントツだった

自分が生まれる前の かなり昔の投手はわからないが

ここ30年では、彼がNo1 だと思う


あの切れ味鋭い 高速スライダー

内角ボールゾーンから内角に切れ込む ブーメランのようなスライダー

打者も当たると思って 思いっきりのけぞってよけていた

それがストライク!

「インスラ」

ってよばれていたっけ

あれはすごかった

魔球

球が意思を持った生き物みたいだった

スライダー全盛の今だが

あの球筋を超える投手は 日本では見たことがない


将来、同じような「魔球」を投げる投手に出てきて欲しい

自分が生きているうち またあの驚きと感動を 期待したい

2012 人類の着地点

生まれながらにして五感を持たない。
他を感じることはなく、必然、自もない。
自他の区別なく、茫洋とそこにあるのは宇宙と一体化した意識のみ。

他から見た自という存在は、自分という限られた枠を超え、宇宙意識と場を同じくする。
それでも他から見た、生き死にの現象は、同じくある。
しかし生の意識がなければ死の恐怖もない。
ただひたすらに、大宇宙と同一化して、時過ぎるのを待つ。

人間に限らず、生き物の多くは自他の区別あり、忙しい生命を送る。
しかし人間ほど、色々な区別をする生き物はいない。
遠近、軽重、早遅、大小、高低、苦楽・・・

区別をすればするほど、憂慮と後悔、嫉妬と優越、そして単純な喜びもあれば悲しみや苦悩も増える。
それが人間らしさといえばそれまで。
しかし現実の「苦悩」する世界を作り出しているのは、人間自らでもある。
鹿や熊は、食べ物が少なく、人間に撃たれ、追い詰められていても、この世が「苦悩」と感じているだろうか?

自他の区別は、生命の宿命とはいえ、ほどほどがよいのではなかろうか。
何でも極端は好ましくない。
人間も、自他の別を少し忘れるところがあってもいい。

原発事故も不景気も戦争も貧困も、自他の別が作り出した、「幻想」に過ぎない。
2012年を来年と表現するのも区別だが、地球生命にとって良い年でありますように。
人類は「自然」に還る。
はやぶさで宇宙を探検するのではなく、目を閉じて大いなる宇宙を「見る」のである。


ニッポン平和教

日本は平和ボケと言われる。
確かにそうだ。
だが実際は、「作り上げられた平和を必死で守ろうとしている」という言い方が似合っている。

日常すべてが当たり前に平和に過ぎていく。
病気で倒れたり、強盗や殺人など犯罪があったりすることは日常的でない、信じられない、嫌だ。

90歳を超えるご老人が、体調を崩して病院に担ぎ込まれる。
家族は「なぜこんなことが・・・」と血相を変えて納得できない様子。
そして家では見れません、入院させてくださいと。
まるで入院すれば、とりあえず平和に戻れるといった雰囲気。
具合の悪いヒトは病院に預け、自宅は平和に戻る。
病院は具合の悪いヒトを治してくれるところだから、数日後には元の様子に戻るだろう。
そして家族は、まるっきり元通りの平和になる。

平和は、死や病気を受け入れられない。

道端で急にヒンケツで倒れるヒトがいる。
ほとんどのヒトは、見てみぬフリをして通り過ぎる。
いかにも平和を乱すモノには気づかぬフリをしようとでもいうように。
倒れたヒトを心配するよりも、自分の平和、世界の平和を第一に考える。

犯罪を犯したヒトが捕まったとする。
ああよかったと、多くのヒトが胸をなでおろす。
そこまではいい。
裁判となる。
ほとんどのヒトは、必要以上の重刑を望む。
最高刑をすぐに叫ぶ者までいる。
やや性質の悪い犯罪であった場合、二度と刑務所から出てくるな、という。
自らの毎日の平和を脅かす存在を嫌い、自分から少しでも遠ざけようとするのである。


原発が爆発しました。
原子炉の屋根がありません。
海に放射能が漏れました。
基準のウン万倍です。
それでも、安全です、大したことありませんという。

そこまでして平和を演出したいか!?
そこまでして作る平和の虚像に何を求めるのか!

北の国は、将軍様をまつっている。
そのすぐ南の国は、地位や面子が命よりも大事らしい。
中の国は、なんとかいう党が一党独裁を建国以来ずっと続けていて、常に権力を守るのに必死だ。

わが国では、平和を奉っている。
どこも同じである。
どこも虚構のものに人々の注意を引きつけ、体制が崩壊するのを防ごうとしている。
カモフラージュ。

洗脳は強烈だ。
奉っているものを破壊するもの、乱すものは許されない。
たとえそれが、言論であろうが、行動であろうが、放射能であろうが・・・。


平和であることのいい点は何か?
安心、安全に暮らせる。
気軽に暮らせる。
確かにうわべはそうだ。

でもちょっと待ってほしい。
人間を含むあらゆる存在は、必ず2面性を持っている。
生きていることは死ぬことでもある。
健康であることは病気になることでもある。
過ちを犯さない人間などいない。
真っ当に生きるということは、過ちを犯すことと紙一重であり、常に過ちを犯しつづけているともいえる。

平和という一面を守るためだけに一生懸命になってしまうと、反対の面を見過ごすことになり、強いストレスが生じる。
非常に片寄った世の中になる。


今の平和な世の中・・・
一見すると安全で便利に見えるかもしれない。
でも実は、とても息苦しい世界なのだ。
いつでもみんなと同じ、平和な行動をしなければならない。
平和な行動を共にすること、それが平和教日本なのだ。

戦時中は大本営がすべてだった。
今も中身は同じである。
放射能が舞い散る世界を、安全です、平和です、と普段どおりに息をして駆けずり回り、子供は外で思い切り遊んで、暮らし続けなければならない。
放射能の検査をしようとすると、平和を乱しおってと白い目で見られる。
放射能で汚染された作物を積極的に食べることが、元の平和に戻るための支援と題され美徳とされる。
これはどう見ても異常である。


放射能が降っても気にしない、最高刑は仕方ないと見る風潮、超高齢者にも最先端の医療を施す病院・・・
すべて平和教のなせるわざで、ほとんどの国民は見事に洗脳されている。

本当の自由、平和とは、台本どおりの平和を演じることではなく、自分の意見を心から素直に言える世界、ヒトは過ちを犯す生き物であることを認め、互いに反省し許容できること。
その結果として、みなが心から納得して生活できる自由な本当に安楽の社会がある。

自と他、明と暗、有と無 ・・・
その二面性を着実に認識した上で、その絶対矛盾的自己同一を実現していくことが大事なのである。

理由もなく平和だけを奉っても、そこに基礎となる哲学はない。
誰かが一石を投じれば、音をたてて簡単に壊れてしまうガラスの彫刻だ。

平和がすべてなのではない。
色々あるのがこの人生、この世界である。
平和だけがいいことなのではない。
そして平和でないことを過剰に恐れる必要もない。


生だけでなく死を直視できる世界観、明だけでなく暗も認めうる世界観、有だけでなく無を知る世界観・・・

もっと住みよい、息が楽な世界は、本当は目の前に広がっているのだ。
平和教を推進する一部の人たちから、マスコミや政府という手段を通じて煙幕を張られ、たっぷりと科学という麻薬を吸わされ、しっかりと進むべき前が見えなくなっているだけだ。


「みんな違ってみんないい」 という詩や歌があるけれど、実際は「みんな同じでなきゃ困る」 といった所か。

今回の原発事故で、いい加減目を覚まし、平和教から脱会しなくてはならない。




科学中毒

自動車事故で1年間に5000人が亡くなっている。
自動車を作り続ければ、毎年ほぼ同じ数のヒトが亡くなり続けるわけであるが、誰も自動車の存在については何も言わない。
運転手は、「自分は安全」と思って運転している。
死ぬために運転しているというヒトはいないだろう。いたとしても、そういうヒトは車を運転しない。
事故に巻き込まれたとしても、他人はそれを自己責任と捉える。
運転していたのは個人だから個人の責任というわけだ。
だから仕方ない。
自動車は容認される。

これが、飛行機事故になると少し勝手が違ってくる。
飛行機が墜落すると、一度にたくさんのヒトが亡くなる。そして、運転していたのはパイロットであり、自分の命はパイロットと飛行機に完全に委ねられている。
運転手が他人であるというだけで、ヒトは恐怖感を覚える。車でも、他人の運転に同乗していると、やや恐怖を感じることもあるだろう。ましてや事故時に一度に数百人が亡くなる飛行機は、さらに恐怖と危険を感じる。
そして、飛行機はもちろん空を飛んでいる。空で事故が起これば墜落する。自動車や電車は地面を走っている。その空から落ちるという、人間の無力感が生じる乗り物の特殊性も恐怖感を強めている。しかし、一年間に世界中において自動車事故で亡くなるヒトの数は、圧倒的に飛行機事故で亡くなるヒトの数より多いのである。
それでも、一般的に自動車よりも飛行機は怖い、という認識が一般的である。

さて、原発事故はどうだろう。
今まで、大きな事故が起こらず、一般住民に命を失うヒトが出なかったときは、「安全です」と繰り返し言われていた。そして多くのヒトが、その安全か危険かという議論には興味すら持たなかった。
原発も運営している会社や現場のヒトは、一応「安全である」と思って、また安全を心がけて運転しているはずだ。このたび事故が起きた。多くのヒトが被爆し、土地を追われた。
なんて原発は危険なものだろうか。一回の大きな事故で、人々の認識は大きく変わった。世界でも原発を廃止しようという国がいくつか出たほどだ。

原発は、運転を他人の手に委ねるという点で、飛行機と同じである。また、一度、レベル7のような事故が起きれば、半減期24000年というような放射性物質が放出され、ヒトの手に負える代物ではなく、被害が長期化するという点で、やはり特殊性を持つ。飛行機は空から落ちる、原発は目に見えず、しかも一瞬でなく半永久的に影響が出る。いずれもヒトの無力感があり、その特殊性ゆえに自動車事故よりも恐ろしいと思われる。

原発が飛行機よりも受け入れられないのは、おそらく目に見えない恐怖と、影響の時間空間的広がりから来る特殊性だろう。ヒトは目に見えない戦いを、長い時間そして居住地や食べ物まで我慢を強いられる。

確かに原発はそこまでして動かす必要はないと思う。

しかし、自動車と飛行機と原発と、そんなに大きな違いがないことも確かなのだ。
運転者は「安全だ」と思って運転している点、その運転により人々が「便利さ」という科学の恩恵を享受している点は同じである。
飛行機はちょっと怖いけど、便利だから許してしまおう。
原発も事故は困るけど、必要な電気を作ってもらっているのなら仕方ないだろう。
そう考えているヒトが多いのではないだろうか。

自動車は自己責任、飛行機と原発は他己責任。
そして、飛行機は空、原発は無色透明で時空の広がりという、特殊性。

自己責任は許せるが、他己責任は許せないということはないだろう。
現に飛行機は「怖いけど」許されている。
嫌なら乗らなければ良い話でもある。
原発は、嫌でも現にソコにあるので、原発で作られた電気を買いたくないヒトでも避けることが出来ないという点で、究極の他己責任である。
でも究極論では、本当に嫌ならば、原発の無い国へ移住するという手もある。
他己責任だからという理由は、飛行機と同じで、究極的には通用しない。

特殊性に関しては、人々の感じ方の問題なのだ。空から落ちるのを怖いと思うヒト、目に見えない放射性物質の方を怖いと思うヒト、人それぞれである。
実際に亡くなっている人の数は、おそらく30年間の合計であれば、自動車事故がこれら三者の中では一番多いはずだ。

何を言いたいか。
わたしは原発には反対だ。そこまでして電気を作らなくても良いと思う。不便になっても、危険なものは少しでも廃止した方が良いと思う。
しかし原発は廃止されても、飛行機や自動車はビュンビュン飛び、走っているという、この社会は、どこかつじつまがあわないように思う。

作れば作るほど、ヒトの命は失われる。しかし決して作るのを止めはしない。事故は怖いが便利には代えられないといったところか。まるで現代人は、便利という享楽の幻覚におぼれた麻薬中毒患者のようである。乗れば怖くてキャーキャーいうのがわかっているのに、それでも乗ってしまうジェットコースターと同じである。恐怖の快感とでもいおうか。

原発を否定するということは、科学を否定することにつながっていく。
原発はダメで、自動車はよい、というのはおかしいのだ。
原発事故の直接の被害者が、生活の足として自動車を買い求めているのは、矛盾した光景でもある。

安全な運転を心がける原発なら構わないという意見もある。確かにどうせやるのであれば、心がけたり準備することは大事なことである。しかし、自動車も安全な運転を心がけていても実際に事故が起きるのである。巻き添え事故というのもある。原発だって、テロに巻き込まれるかもしれない。心がけて準備さえすればいいという話ではない。

原発=飛行機=自動車=科学の産物 なのである。

便利の裏には、必ず危険がつきものである。すでに人類は自然の虎児であり、「自然」ではない生活、「自然」にはない生活を送っている。本来の自然には、自動車も飛行機も原発もなかった。原発事故で本当に目が覚めたというのなら、社会全体が自然に還る準備をしなくてはならない。

しかし、現実に科学文明を否定した生活ができるのか?
答えはNoだ。
自動車を含めて、冷蔵庫やエアコンを排した生活ができるわけがない。
現代の社会はそこまで行き着いてしまったのだ。それだけ麻薬中毒になってしまっているのだ。中毒患者の治療は容易ではない。一部の知られざる昔ながらの生活を保っている、未開の地の(=未開ではなく、本来はこれが自然)原住民を除いて、世界全体がここまで科学中毒に浸っており、まず治療は不可能だ。

自然に還れない以上、だから人類は地球という生命劇場の「幕引きの役者」なのである。
残念で寂しいことだが、これが現実である。

人類よ、さようなら。
地球よ、さようなら。

幕引きの役者


体の調子が悪いと病気ではないかと心配になり、「真実」を求めにヒトは病院へ行く。
検査の結果、異常の「真実」がわかれば、少し安心する。
検査で異常が出ないと、「真実」がわからず不安になる。
自分のこの不調はいったい何が原因なのだろう・・・?

果たしてあなたが無意識に追い求めている「真実」は本当の真であろうか?

科学が発展したのは、ある意味「真実」を知ろうとする人間の欲であった。
数多く発見されてきた、自然科学の法則は、確かに人智の範囲で「真実」であった。
自動車が走り、飛行機が飛び、ロケットで宇宙へ行くようになった。
これは、「真実」を知ったからである。

しかし人間は、本当の真、絶対の真を知ったのではなかった。
知ったと思った「真実」は、人智の井戸の穴の中でしか通用しない、ぬか喜びのものでしかなかった。

科学が発展しだした頃、人間は「真実」を知ることによって、もっと自由に便利に豊かに生きることが出来ると思ったに違いない。
「真実」の探求のためには、自然を犠牲にすることもやむを得なかった。
そしてそのたった数百年後、人間は自らの手で処理が出来ない原発を作りあげ、その当然の帰結として自ら自爆した。
自爆しただけではなく、地球上の生命を道連れにした。

今だからこそ、あのときの人間が踏み出した方向が間違っていたといえるのだ。
当時は多くのヒトが科学の発展に夢を託したはずだ。
科学が発展を始めようとしたとき、あえて「やめろ、自然に還れ!」と声高に叫ぶことができたヒトがどれだけいたであろうか?

こうして考えると、ヒトという地球上の一生物は、地球の生命の終焉を導くために誕生した生命体のように思える。
幕引きの役者だ。
線香花火が最後に一瞬の閃光を放ち、落ちて消えいくように・・・。

もはや花火は輝きを失い落ちる寸前だ。
自然と一体となって生活していた頃の人類には、もう戻れない。
しかしそれも運命なのかもしれない。
人類が地球の幕引き役者なら、それも自然の筋書きなのだ。

結局、役者は役を演じただけで、台本を書いた作者(=神)の心は、推し量る努力は出来ても、その真なる「心」はわからない。
何の意図があって、生命という台本を書いたのか?
台本上の役者にとっては、永遠に理解は出来ない。

一生懸命、「真実」と思って演じてきた台本は、台本でしかなかった。
人智の及ぶ範囲に、絶対の真はなかった。
人類は戯曲を演じてきたのだ。


方丈記・・・

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
~略~
あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。」


ヒトも生命も、川に浮かんでは消える “あぶく” のようなものだ。
所詮、あぶくにとっては、なぜあぶくができるのか、なぜ水があるのか、なぜ川が流れているのか、そんなことは決して分からないのである。


そんな “あぶく” に意味などあるのだろうか?
ヒトは「生きた証」などと、自らの人生に意味を持たせたがる。
はっきり言って、人間が考えるような意味での「意味」は存在しないといえる。
本当に意味があるかどうか、それは台本を書いた神のみぞ知ることである。

ただわたし達人間は、ほかの動物や植物や昆虫たち生命と共に、日々を楽しく生きていればよかった。
「真実」を追究し、時空を設定し、「意味」を考え、ヒトは自然の営みから孤立していった。
しかし「禁断の木の実」・・・知恵がついたのも人間という役者に課せられたシナリオだった。
原発や戦争で自爆するのは、幕引き役者の人間には、避けられない流れだったのかもしれない。

もはや過去を懐古し、未来を憂慮するとき・・・それ自体が反自然なのだが・・・わたしには暗い人類と地球の未来しか見えない。
絶望といえば、その通りかもしれない。

舞台の幕はもう10分の9ほど引かれかかっている。
その幕を次に再び開ける役者は、人間とよばれる生命ではないような気がしている。

たとえそうであっても、夕陽が沈む一瞬に放たれる伝説のgreen flash のように、その最後の一瞬だけでも、神の元を目指して進もうではないか。
地球劇場・第一部の最後の最後に、第二部のためにも一瞬の明るい光明を作りたい。
「真実」を求めず、「意味」を考えず。

ヒトが求め考えるところに、神はいない。
真実は台本の内容にあるのではなく、役者それぞれが本当の真であった。
ヒトという自称・役柄 「知能指数の高い生命体」 は、そんな簡単なことにも気づかなかったのである。
幕引きに指名された役者の役柄としては、最適であったのはいうまでもない。

ロケットで飛び出したどんなに遠い宇宙の先にも、顕微鏡でのぞいたどんなに微細な素粒子の世界にも、神はいなかった。
たとえ、マクロとミクロ、大宇宙と素粒子の世界の構造が同じであり、神の痕跡を感じることはできても、神を見つけることはできなかった。

人間は神の風呂敷の中で、自分だけは特別ですべてを知ることができると考えてきた。
確かに人間は特別だった。
人間だけが神を知ることができない唯一の生命体であったという点で・・・。


きょうも「真実」を求めるヒトで、病院は行列だ。
みんなで毎日一生懸命、幕を閉めたがっている。
本当の真を見失った人間、目は開いているのに「光」は目に入らない人間。
魑魅魍魎、ゾンビの世界 とどこか変わりがあるだろうか。

わたしはこんな現状にうんざりだ。

そもそも地球上に「仕事」など必要はなかったのだから。


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プロフィール

ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

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