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お別れの言葉

わたしは4月から組織に属さぬ人間になります。
子供の頃から大して意味もわからず、それなりにスポットの当たる場所も経験してきましたが、おそらくこれからの人生においては、二度とそのようなものには縁がないことでしょう。もう、おさらばです。
残念とか名残惜しいという感じはまったくなく、本当に心からほっとしているというのが今の気持ちです。
生きている事実においては、自分の心の持ち方次第で大変になるかならないか決まってしまいます。
色々と、精神的にも物質的にも抱えてしまっている人の方が、意外と大変なのではないでしょうか?

そもそも人はなぜ、人や自然を支配しようとしたがるのでしょうか?
元来は、みんなで助け合って仲良くやっていけばいいと思うのです。
理由はおそらく自分以外の他者への「恐怖」や「不安」、「不信」です。
心が弱い人ほど、誰かにいじめられるのではないだろうか、という不安や恐怖、不信感を覚えます。
そこで他者に勝つために、先手を打って、相手が自分の思い通りになるように、云うことを聞くように支配しようとするのです。
子分にしようとする。配下に置こうとする。思想を洗脳して反逆できなくしてしまう。
世界には洗脳兵器、精神を操る兵器まであるそうで、そのような兵器で操られた軍隊も存在しているようです。

暴君的にも思えるこうした事実において、一つ言えることは、こうした行動は、実は生きているものの本能のひとつかもしれないということです。
動物は常に「食べられる」存在であり、自らの命を生かすためには外敵の存在に気を配らなければならないのです。
当然、日々の一瞬一瞬が「不安」と「恐怖」で満ちているのです。
安心してゆっくり楽しんで食事を取っていられるのは、自然界の中で人間だけです。

闇の世界で世界支配をもくろんでいる「奴ら」も、本当はそんなことに謀略を巡らすのは疲れるはずです。
田舎に引っ込んで、畑でもやって、ゆっくり温泉につかり、自然と戯れてバーベキューでもやりながらのんびり生活しているほうが、ずっとラクなはずです。
なぜみんなそうしないのでしょうか?

「不安」や「恐怖」は自らの心の内にあります。
動物は本能で不安や恐怖にかられて生活しているかもしれませんが、人間には自由な思考をする権利と、またそのための能力があります。

自由な思考とは、同じ内容のことをどう考えても、どう感じてもその人の自由だということです。
不幸なこと、悲しいこと、マイナスのことばかり考えるのもその人の自由。
逆に幸せなこと、嬉しいこと、プラスのことを常に考えるのも本人の自由なのです。
そして本人がどう考えているかは、周りの人にはわかりませんし、また人がどう考えているかなんて実際のところ大して興味もありません。
お金がいくらあってもまだ不満に思う人たちもいれば、その日暮らしの人生でも、地球の上に生きていて世界が見えているだけでも幸せと感じる人たちもいることでしょう。
わたしなんかは、田舎の広い土地に住み、澄んだ空気を吸って生活できるほうが、都会の人ごみと喧騒のストレスの中で生活するよりもずっと幸せだと感じます。(田舎は田舎の辛さがありますが)
あくまでも、本人の考え方、生き方、心の気持ち次第なのです。

名誉や権力、社会的地位に固執する人は、心のどこかで常に「他者からの評価」をすごく気にしている心のさみしい人のような気がします。
他者から自分を評価して認めてもらうことで、心の中の「不安」や「恐怖」を取り除いているのです。
そういう人は、自分を他者に認めさせるために、「自分のすごいところ」をアピールしたがります。
本当は心が淋しいのです。心が病んでいるのです。みんなと仲良くなりたいのです。
自ら心の門を開き、素直に人を信用して、困っている人に自分から手を差し伸べ、みんなで助け合い仲良くやっていくということができない人なのです。
不安で他者不信があるから、相手と無用な競争をして、その結果、社会では支配者と被支配者を生むことになりました。
自然も恐怖でしたから、自然を征服しようとして、自然破壊を繰り返しました。
今では、ハアプという自然・天候・地震すら操れる、電磁波の怪物兵器まであります。

勿論、研究などに情熱を傾けている人々は、組織に属して集団の力でなければできないこともあります。
要は、何に固執しているかの違いです。
ポストや要職に固執し続けるのか、実際の職務内容に情熱を持っているのか、一見同じ職場の同じ立場に見える人たちの中にも、そこに違いが見え隠れします。
つまりは「心」です。

不安、恐怖、不信など、すべては人の心が作り出す、実体のない幻想、妄想なのです。
競争、カネ、権力で世界を不幸にしてきたのは、自分の心が原因なのです。
このブログでも過去幾度も考察してきましたが、相手を思い遣る心、相手のために相手が喜ぶことを何でもいいからしてあげようと思う素直な心、それがすごく大切です。
また逆に、そういう他者からの思いやりの気持ちを警戒せずに素直に受け止められる、広く開けっぴろげな純粋な心を持つ努力をすることもすごく大切です。
そして、人間は生まれながらにしてそういう心は持っていたはずです。
少なくとも子供の頃までは。

競争が競争を生み、他者より少しでも秀でようとする世界が虚構であったのは、すでに証明されました。
世界のスローガンであったグローバルスタンダードは崩壊し、リーマンが倒産したことは資本主義の終焉を意味しています。
もちろん闇の力である「奴ら」は、資本主義をつぶすことで次の利己的な儲けを考えています。
テロはテロリストがまず自爆しなければ成立しないのです。
無理を承知でカネを貸し、利己的な金儲けが幅を利かす時代は限界がきたのです。
それはとっくの昔に「奴ら」が仕組んだ、自作自演の筋書きです。
今までの物質的な豊かさを求め続ける世界は、最初からヒトの心の中の幻想だったのですから、こういう結果になったのは、当然といえば当然のことです。
他人に勝ち自然に勝つ時代は終わりを告げ、人と和し、自然宇宙と和す時代が来たのです。
いつまでも「奴ら」の映写する作られた世界にはまり続けるか、自らの「心」が世界を創っていることに目覚めるか、2者択一、オルタナティブの時代に入ったのです。

以前書いたことの繰り返しになりますが、人間は「食べられる」存在ではありません。
それはヒトが長い時間をかけて知能を発達させて獲得してきた大きな宝物です。
本来、何かを恐れる必要など、どこにもないのです。
相手を蹴落としてまで、自分だけ上に行けばいいという利己的な時代はすでに限界が来ました。
地球の資源、地球の財産は一定量以上はないからです。
癌細胞のように、食い荒らすだけでは、地球自体も死滅してしまいます。
これからは、「思いやり」、「助け合い」の時代です。
困っている人がいたら手を差し伸べる、助けてあげる、みんなで寄付をする。
人類みんなが自然とそういう気持ちになれば、こんな住みよい世界はないと思うのです。
不要かつ不毛な競争をして、自分だけ勝ち上がるという行為は、地球の将来にとって何の価値も持ちません。
まずは自分の心に潜む、得体の知れない「恐れ」を取り除くことです。

利己的な行動は、一時の中身の無い羨望を集めることができるにせよ、結局、自らを滅ぼします。
あのバベルの塔のように・・・。
しかし、逆に「利他的」な気持ちが優先すれば、互いに手を差し伸べあう温かい世界になるはずです。
不信や不安、恐怖が取り除かれた、住みよい世界が到来するはずです。

そのためには、すべてにおいて各人の「心の充実」が大切になるでしょう。
不安や不信、恐怖に負けず、流されない、強い心が必要です。
目先の損得、目先の幸不幸の物差しで物事を測ってはいけないでしょう。
自らの財産や社会的地位、自らの家族・家庭など、今の世界で常識的に「幸せ」の尺度ととして使われている物差しだけにとらわれてはいけません。
それは物差しというよりは、足かせに近いものです。
結婚しようがしまいが、子供がいるかいないか、ましてや何人子供がいようがどうでもいい話です。
それで社会が住みよくなるわけではありません。
逆にそういうことを気にする人は、心の充実がまったく図れていない人であり、未来において幸せとはまったく無縁な状況を作ってしまうことでしょう。
そういう人たちが集合すると、きっと住みづらい社会になってしまうでしょう。
自分自身の確固たる心の物差しで世界を測っていくことが大切です。
それが最終的に、自分も相手も幸せにします。

おカネや株券なども、この経済恐慌と借金まみれの先進国においては、いくら持っていても近い将来、ただの紙くずになる可能性も十分にあるのです。
円やドルに代わる、新たな通貨価値の基準が導入されることも、すでに想定されていることです。

心の充実は、自らの既存の幻想妄想を断ち切ることから始まります。
大人になるにつれて、このせちがらい社会で刷り込まれた「常識」を、捨て去らなければなりません。
世界を幸せなものにするか、不幸なものにするかは、自分自身の心が決めることなのです。
あなたが世界を創り、創ってきたのです。そして創っていくのです。
くどいようですが、ここでいう「幸せ」とは、今までに一般的に云われている「幸せ」とは次元が異なります。

モノやカネ、恋人、家族がいなくても、自らの身一つさえあれば、本当は世界は幸せにできるのです。
また逆に、いくらでも世界を不幸なものにすることもできてしまいます。
多くのみんなが、まだそれに気づいていないだけなのです。


わたしは「下野」し、「灰衣の医師」を目指します。
そんな気持ちを持ち続けて、訪れる患者さんたちに接していけば、必ずお互いが幸せになれると信じています。
そして片田舎の小さな「幸せ」が自然と世界に広がっていくことが、わたしのこれからの人生の心からの願いです。


わたしは人々の気を惹くような、美しくも華やかなバラにはなれません。
性格も器用ではなく、穴に入りたいような数々の失敗ばかりしてきました。
後悔したできごとも、数えきれません。

わたしは路傍に咲く一輪のタンポポです。
踏んづけられ、刈られるタンポポです。
バラは「見られ」てなんぼですが、タンポポは存在してなんぼです。
他の雑草たちに紛れつつも、そこにタンポポがタンポポとして普通にあることが大事なのです。
タンポポが消えた世界を想像できますでしょうか?

本来、人が持っている「思いやりの心」というのは、そういうものではないかと思うのです。
その存在を誇示しなくても、普通にそこら中にあるものだと思うのです。

世界を住みにくくしているのは、自分自身、あなた自身の心であることを、もっともっとみんなが気づいて欲しいと思います。

他者や自分に「要求」をして生きていく人生よりも、他者にも自分にも「感謝」して生きていく人生が、わたしは好きです。
この世に生きていること、そしてこの世が存在していること、そして自分がいてあなたがいること。
それって、とっても素敵なことではないでしょうか。
これに感謝をしないでいったい何をするのでしょう。

この世はエネルギーでできています。
すべての物質も、E=mc2 であり、エネルギーに転化していきます。
わたしの肉体もある種のエネルギーであり、死んだら何かのエネルギーに変化するのでしょう。
心や意識はなおさらエネルギーのようなものです。
エネルギーは、類は友を呼びます。
自分が感謝するエネルギーを持っていれば、同じようなエネルギーが近づいてきてくれるはずです。
そしてみんなが感謝のエネルギーを持ったら・・・世界の波動は変わり、量子のレベルから新たな住みよい世界への変革が起こるかもしれません。

だからわたしは、まず自分が「感謝」の心を持ち続け、そして残りの人生を歩んでいきたいと思うのです。
住む場所、職の内容、地位名誉などは関係ありません。
感謝の心をなくしては、世界は滅びます。
逆に、地位名誉を持てば持つほど、感謝の心はもっと深くしなくてはなりません。
自分に地位名誉があるのは誰のおかげか、どれだけの人の努力と支えと涙があったのか。
スポットライトに満足していてはいけません。
スポットライトが当たるのは、周りが暗いからです。
自分を明るくせずに、あえて暗くしている縁の下の力持ちがいるからこそ、スポットはスポットであることができるのです。
スポットライトが当たる人も当たらない人も、世界を繋ぐコミュニケーションの同じモナドの1ピースに過ぎません。

苦しい社会、困難なつらい社会を、明るく住みよい幸せな社会に変えていくのは、わたし自身、あなた自身の心なのです。
決して一人の力ではどうにもならないモンスターを相手に暮らしているわけではないのです。
不安と不信、恐怖を消し、感謝の気持ちを持って生きていきましょう。
どこに住んでも、どのような組織に属そうと属すまいと、「心」の中身だけは自分自身、あなた自身が決めることなのです。

絶対矛盾的自己同一の世界は、一人はすべて、すべては一人です。
自分は他者であり、他者は自分です。
敵は味方であり、味方は敵なのです。

自分の心も、味方にもなれば敵にもなるのです。
本当の「敵」は何なのか?
もうわたしの云いたいことはおわかりですよね?


皆様、大変お世話になり、どうもありがとうございました。

タンポポの小さな種が、ふんわりとあなたに幸せを届けますように・・・

本当にどうもありがとうございました。

(注:ブログは続きます)
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プロフィール

ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

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