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不連続の連続

1) 不連続の連続(悟者の世界)


「不連続の連続」

西田幾多郎の発したこの深遠なる不可解な言葉、これは即「悟り」に通じている。

西田師の真意は、本人になり代わらなければ、愚人のわたしが知る由もないが、自身なりの一応の解釈ができる境地になった気がするので、私見を述べてみたいと思う。


まず、この世に時空ありきと思うことは、間違いである。
それは、過去の記事でも繰り返し書いてきた。

時空とは、人間が人知により、物事を「分別(区別、差別)」するために、都合よく編み出した、いわば幻覚、虚相の産物といえる。

ヒトは、時間が過去から未来へと一定の速さと向きをもってして、川の水のように流れており、川の濁流の中を私たちは流されているように思っている。少なくとも生きている間は、岸に上がることを許されてはいないと。

また、空間が「宇宙の果て」まで、四方八方にほぼ無限に広がっており、空間の中を自己の判断で任意に移動しながら生きていると思っている。それはちょうど、池の中で泳ぐ鯉に似ている。池の中は自由に泳げるが、少なくとも生きている間は、池から外に上陸することは許されていない。そのように思っている。

このように、自然と時空の観念に囚われ続けて生きているのが、人間であるともいえる。
この観念に生きる限り、時空を超えることは「許されていない」。

しかし、許す、許されない・・・
いったい誰が決めたのか?
実は誰も、時空の中に生きろ、などと命令していない。
勝手に人間が、自分で自分を観念化し、縛り上げているだけである。

これはちょうど映画館のようなものかもしれない。
外界には、本当は映画よりもずっとずっと楽しく刺激的な世界が広がっているのに、暗闇の狭い部屋に大勢で詰め掛けて、みんなでフィルムに収められた「作られた」幻想の世界に安を求め、さらにその気持ちを共有しているのである。


そもそも時空は、人知が「区別」を覚えたときから始まった。
人知以前は、時空など存在しなかった。

そんなことはない。人類発生以前から、そう、宇宙が存在を始めた時から、普遍的に時空は存在している・・・
と思うのは、あくまで人知の及ぶ範囲内(川と池の中から)の世界観にしかすぎない。

人知は、区別をすることに始まった。
「わたし」を自然から区別し、切り離した。
自然から遊離した「わたし」は、もはや自然の一員ではなく、自然は脅威となり、征服しなければ生きてゆけぬ対象となった。
「わたし」は「あなた」を区別した。
「あなた」はわたしにとって、敵か味方か、どちらかになった。

木や花や草を、自然から分離して、名前を付けた。
自然から遊離した木や草は、ヒトの利害によって、その存在、存続を批評されることとなった。
昆虫や動物もまた然り。
人間にとって有益であるかどうかで、「害虫」「益虫」「害獣」などと呼ばれる状態になった。

時間も例外ではない。
「きのう」と「きょう」と「あした」は、明確に区別された。
人知は、流れる時間の川の地点ごとに、「年月日」という識別番号を与えて、川の位置を区別した。

空間は、もっと「区別」がはっきりしている。
世界地図に振られた、国名、地名、番地などは、最たるものである。
「わたし」から見て、「ここ」と「あそこ」は「位置」が違うと区別される。
テーブルの上に置かれたコップ。
テーブルと、コップを区別し、しかもその二者に「上下」という関係付けを行なった。
常に、空間的座標を頭の中に組み入れながら、「目に映る」世界を、位置判断という人知の下に、区別をしている。

一方、自然界に合一した見方というのは、それは区別をしないことである。

「ここ」があると思うから「あそこ」があるのである。
「きょう」があると思うから「あした」「あさって」があるのである。

ここもあそこも区別がない。
きょうもあしたも区別がない。
遠近があって遠近がない。
過去、未来があって、過去も未来もない。
「はじまり」もなく「終わり」もない。

そこには「永遠の今」と「永久の此処」が存在するだけである。

わたしは「いま」、「此処」で生きている。
ただ「生きている」、それだけである。

きょうの「生」はきょうの「生」。それで終わりである。
明日は明日の「生」。一寸先の未来も「わたし」にはわからない。

一瞬の「生」は一瞬の「生」、そして一瞬で「死」に続けているのである。
「わたし」はきょうで一度「死」んだのである。

きょうとあしたは絶対的な不連続、かつ絶対的な連続性を保っている。
ここでいう不連続とは、全体から区別、分割をすることではない。
「永遠の今」は、一瞬一瞬、一日一日の、「不連続」が基本にあり、それが連続する(合一する)ことで「永遠」を獲得するのである。

きょうにあしたの心配をする「わたし」は、そこにはいない。
常に「永遠の今」を生きている「わたし」だからこそ、一日の「生」は一日で終わるのである。

不連続の連続である「永遠の今」を生きる「わたし」に、生死の不安はない。
生死を超えて「生きている」のである。
日々一瞬は「歓喜」に満ちており、そこには一抹の不安もない。
不連続を識ることは、「歓び」を識ることでもある。


空間も不連続の連続である。
時間が「永遠の今」なら、空間は「永久の此処」である。

場所は常に「此処」であり、決して「此処」が「彼方」になったりはしない。

どこに生きようとも、自分がいる場所は「此処」であり、他者が存在する場所も「此処」である。
なぜなら、人知を超えた「空間」(本当は別の言葉で表現したいが)は、番地で区別されるものではなく、「此処」という以外、表現する方法はないからである。

「此処」は消失と生成を繰り返しており、すべての存在にとっての「此処」が集合、合一し、無限の「空間」を形成している。
不連続である「永久の此処」の連続=合一が、永久性を獲得しているのである。
そこには、宇宙の果てがどこにあるか、などという遠近の議論は、決して発生しない。

人知を超える「時間」や「空間」は、分割できるものではない。
分割したものが、今とココになるのではない。
合一と結合は、まったく意味が異なっている。

分割もできず、結合することもできない存在。
それが、「永遠の今」であり、「永久の此処」なのである。
いわば、「永遠の今」は超「時間」であり、「永久の此処」は超「空間」である。

全体は一であり、一は全体である。
本当の「今」を識り、本当の「此処」を識る者は、永遠の時間と無限の空間を獲得する。
一方、時空の中に分割された人間は、どんなに科学が発達しても、決して、時間の永遠性と空間の無限性を得ることはできない。

悟人は、一瞬、一点に、永遠無限を観、絶対の歓喜を得る。
俗人は、長い時間と広大な空間に永遠無限を探しに出かけ、相対の寂寥を得る。


少し例をあげてみる。

俗人が「テーブルの上にコップが置いてある」情景を見たとする。
悟人は同じものを見たとき、こう思う。

コップとテーブルは不連続であり、どちらも「此処」である。
こことあそこに距離があるわけでもなく、コップはテーブルの「上」にあるのでもない。
そこにあるのは、単に「もの」だけである。
上下左右の空間的座標は存在しない。
悟人は、コップとテーブルがあるのを、「ただ」見るのである。

これをつまらない空虚な世界と捉えてしまうだろうか?

否、決してそんなことはないのだ。

差別、比較、関係付けの観点からしか、ものを見ることのできない俗人と違い、ものの「本質」を即、観ることができるのである。そこには、自然と合一している者にしかわからない、本来すべての存在にあるべき絶対的「歓喜」が満ちている。

科学的なものの見方をして、初めてそこに、「距離」や「上下左右」が生まれる。
それは、「もの」を人知で自然界の合一から切り取ったからに過ぎない。
そこには絶対的本質も歓喜もなく、相対的な寂寥と孤独しか残されていない。




2) 連続の不連続(俗人の世界 ~不安、対立の発生)


俗世の一般的観念について、もう少し詳しく述べてみる。

俗世では、時空は元々存在するもので、時空の中に(時空の制約を受動的に受けつつ)、わたし達は生きていると疑問なく考えている。

時間が流れる川、空間が池だとすれば、川は常に連続性を持って流れており、池は「面」として連続性を保っている。
つまり、元々が「連続」状態なのである。
その連続の中に生きるのが、人間であり、自然であり、この世だと思っている。

きょうとあしたは、時間的に「連続」しており、それは未来永劫、変わることがない。
こことあそこ、あれとこれは「連続」した空間的関係であり、それはこの世が終わるまで変わることがない。
そう思っているし、あえて考えたこともない。

しかし、その連続性が途絶える時、ヒトは得体の知れぬ恐怖感と孤独感を味わうことになるのである。
恐怖と孤独が発生する原因について、あえて考察するでもなく、単に死を怖いもの、忌むべきものと考え、ただただ避けようとする。

俗人の意識にある「生」は常に連続したものであるからこそ、「死」によってその連続性が失われることに不安恐怖するのである。
きょうとあすは連続したものであるからこそ、きょうにあすの心配をすることとなり、将来の不安、死への恐怖を日々感じつつ生きているのである。
そして、「死」によっても、時間的連続性を断ち切れないことから、死んでも死に切れずに、「幽霊」なる奇妙な存在を導き出すことになる。

つまり、俗世は、「連続の不連続」なのである。
連続性の時空の中に、わが身を置いており、その連続性こそが真理だと思っているからこそ、連続が絶たれることに、不安恐怖し、また不連続(=死)の本質をどうしても理解出来ないのである。
すでに出発点が真理と正反対なので、理解しようにも絶対に不可能な状態なのである。

しかしまた不思議なことに、現生を絶つ「死」には恐怖を覚えても、現生以前である出生前については、恐怖を抱かない。
出生という「不連続」によって、現生が始まったにも関わらず、である。
生まれる前はどうだったのか?
「はじまり」は怖くなく、「終わり」が怖い。

ヒトは時間の方向性も、考慮に入れてしまっている。
しかし、方向を決めてしまうことは、進むべき方角が一つしかないことを意味し、全体を見通すことは、この時点でもうすでに不可能なのである。

全体から一を切り出したのである。
元来、全体は一、一は全体であり、何もそこから切り取り分割することなど出来ない世界であった。
そして切り出した瞬間から、一は全体から遊離し、ヒトと相対する「対象」となってしまったのである。

全体から遊離した一は、全体としての本質を失い、これまた全体から遊離したヒトと同じ、合一した自然界の中で、特異な一となり、他から区別される存在となっていく。

本当の時間は、「永遠の今」で、不連続である。
不連続な存在に方向性は無く、その不連続のあらゆる合一が、悟者の永遠なる「時間」となる。
今は永遠であり、永遠は今である。
不連続の存在に、特定の流れる方向性などはない。
はじまりもなく終わりもない。

鶏が先か卵が先か。
これは質問すること自体が無意味なことであり、鶏が先でもあり卵が先でもあるのである。
子は親の後に生まれたと思うかもしれないが、子が先に生まれることもあるのである。

それが本当の時間の姿であり、自然の姿である。

しかし人間は、連続の方向性を持つ世界の中で、不連続から逃れようと、「長寿」や「不死」に憧れを持ったりする。
連続性を求める「欲望」が涌いてくる。


俗人にとって、空間も、連続の不連続である。
池は連続しているが、池の外は不連続で仕切られていると考える。

空間的不連続を識らないことも、欲望を生む。

自分は囲われた池の中にいると思っており、池の中で他を自と区別し、自と「関係づけ」ることによって、自が生きている証明を得ている。
自分は池の中のどこにいるのか、何を所有しているのか、誰と仲がよいのか悪いのか・・・。
すべて、池の中で自分を周囲と比較し、自らを他と「関係づけ」することで、自分の存在を納得させている。

貧富、大小、美醜・・・
すべてにおいて「関係づけ」ることは、自分と他者の間に、池の中の連続を認めていることであり、連続があるから比較相対が可能になっている。
比較相対は、羨望、嫉妬、落胆、卑下を生み、相対的物欲の世界に嵌まり込んでいく。

しかし、その「関係づけ」て生きている自分、そしてそもそも池自体も、実は自然の合一から切り出され投げ出された、真理の世界から遠くかけ離れた、虚構の存在であることには全く気がついていないのである。

さらに連続する空間の不連続を忌み嫌い、不連続が身近でないことを知り、安心を得るために、宇宙の果てを無限的遠方に探そうとする。
ちょうど自分にとっての時間的不連続となる、死を忌み嫌うように・・・。

しかし、池に連続性を求めることは、自ら有限を設定したことでもある。
連続するものは、必ず途絶える運命にあるからである。
人間の設定した池は、有限であった。
連続の不連続なる池。

無限を求める者には、必然、有限の壁が立ち塞がる。
無限は求めずして、自然、無限であり、真に有限を識る者は、求めずともすでに無限を識っている。
無限は、有限の外に探しに行くものではなく、有限の内にあるのである。

囲われた池の中で、他の魚を見て安住する鯉。
他の魚がいなくなれば自分を見失い、囲いの外に出れば死んでしまう。
池の囲いの中で鯉が自らの美醜を競っても、池の上から見下ろす悟者には喜劇に映る。

悟者の住む池は、不連続の連続である。
此処はどこまでいっても此処であり、池は無限である。
美醜もなく大小も無い。
鯉は鯉であり、魚は魚、水は水である。
水の中に鯉はおらず、鯉は水の中にいるのでもない。
水と鯉と魚が、ただ無心に生きている世界。
それが悟者の住む、永久無限の池である。



また少し例を挙げる。

「大きな栗の木の下で、あなたとわたし、仲良く遊びましょう・・・」

有名な歌、なんの変哲もない歌である。

しかし、悟者の世界、不連続の連続の世界では、これはまったく異なる見方となる。

永久の此処である、不連続の空間では、上下左右の関係付けは意味をなさない。
そこには、単に、木とわたしとあなたが存在しているだけである。
そして、木もわたしもあなたもすべて自然に合一している。

小さなに対応する「大きな」木も存在しない。
上に対応する「下」にいる、わたしもあなたも存在しない。
「わたし」に対立する「あなた」も存在しない。
仲が悪いに対立する、「仲良く」という概念も存在しない。
勉強や仕事に対立する、「遊ぶ」という概念も存在しない。

人知で区別をするから、比較が始まる。
比較をすることは、貧富、美醜、大小、明暗、善悪、高低・・・ すべての対立を産むことになる。
繰り返すが、対立とは、空間的連続性を疑わないことが必要条件なのである。

時空が不連続であれば、そうした不安、対立は消失する。
不連続の時間=永遠の今においては、あしたの心配、死の不安 は発生しない。
不連続の空間=永久の此処においては、ものの比較、対立、愛憎 は産まれない。

神なる自然宇宙と合一した、絶対的本質と歓喜に満ちた世界が広がっている。

すべては、時空がもともと存在=連続していると考えてしまったことに、本質的な問題があったのである。



3) 時空を失う俗人、時空を捨て去る悟者(人類の進むべき道)


言い換えれば、俗人が恐れ、不安するのは、「時空」を失うことを恐れているのである。

俗人は連続の不連続に生きる。

死ぬことが、自分が生きてきた時間の連続性から放り出されることを意味し、未体験の不連続性に恐怖を抱くのである。
それは即ち、時間を失うことである。

また、生きている生活は、空間的連続性を観念の土台にした、ものの区別、関係付けから成立している。

わたし、あなた、友人、他人、先生・・・
赤、青、緑、黄・・・
おいしい、まずい、からい、甘い・・・
硬い、軟らかい、明るい、暗い・・・
暖かい、寒い、熱い、冷たい・・・

すべての五感が認識する情報は、区別という人知のフィルターにかけられて、「理解」される。

「わたし」という存在も、これらの連関した世界の中でのみ、認識される存在でしかない。
その連関が絶たれるとき、ヒトは自分が世界から消失する錯覚を覚え、恐怖するのである。
それは即ち、空間を失うことである。

連続する時空が不連続を迎えるとき、そこには永遠永劫からの断絶がやってくる。
連続の終焉は、不連続という形で必ずやってくる

ヒトは、時空を失い、連続の不連続に、得も知れぬ恐怖を抱くのである。


一方、不連続の連続に生きる悟者は、永遠の時間と永久の空間を手に入れている。
不連続の合一は、連続しかないのである。

今をただ生き、未来を憂えず、他を比較区別せず、ただ此処に、自然に合一して生きる。

人間以外のすべての生き物は、悟者の世界に生きている。

そこには、生死の疑問、不安はなく、日々、自然宇宙の神なる本質を魂で感じ、歓喜に打ち震えた世界が展開している。

「わたし」は自然であり、自然は神であり「絶対無」である。

「わたし」の中に神は宿り、「わたし」の中に絶対無はある。

時空を超え、生死を超えた、不連続の連続に生きる「わたし」は、絶対無の世界に遊び、欲せずともこの世のすべてと絶対の愛を手にする。

その「わたし」は、因果律で示される生命の意味はわからずとも、生の本質、生の本当の意味について、考えずとも理解しているのである。

人類の進むべき道は、自然からのさらなる解離ではなく、自然への合一しか残されていない。
時空にしがみついて結局は失うのではなく、時空を自ら捨て去ること。
連続の不連続から不連続の連続に生きること。
不連続の連続を知り、絶対無に目覚めること。

それは、破壊と闘争に明け暮れている人類に残された、唯一かつ絶対の真理の道である。

幻想の楽園を夢見て前進を続けるのは、もうやめよう。
現実を直視し、歩んできた道を後戻りしてみよう。
少し前に見捨ててしまった平凡な廃屋にこそ、永久無限の真実の楽園が隠されているのである。






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プロフィール

ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

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