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「幸せの廃屋」 ~知っている人間、識らない人間~

「あそこに花が咲いている」

ヒトは、咲いている花を見て、そこにある「花」を知ったと理解する。
咲いているのは「花」であり、「花」でないものではないことを疑念なく確信する。

花を見て、花であることを知る。理解する。
「知る」とは何か?

ヒトが「知る」といった場合、それは「区別」することである。
AはAであって、AはBではない。Cでもない。

花は花であって、葉ではない、茎でもない。
すべての過去の知識を脳の中で総動員して、「その物」が何であるかを、他者から区別し、一物に抽出するのである。
それを「知る」という。


「知る」ことが、「区別、差別」することであることは、自分の認識の過程を考え直してみれば、容易に理解することができよう。

人間は、「知る」ことによって、対象物を自然から切り取り、遊離させてきたことになる。
人間が「知った」花は、もはや自然の中に融合している、本来の「花」ではない。
「花」の本質は無視され、本質から切り取られた、表面上の「花」となる。

人間は、科学の発展と共に、多くのことを「知り」、自然から区別してきた。
区別された「物」と「物」の間には、「距離」があることが必然となり、「空間」の認識がごく当然のように生まれた。
空間と空間をつなぐものとして、「時間」の概念が生まれたのも当然であった。

こうして、哲学者カントも錯誤した、「時空の概念」が、既存の認識の根底にあるものとされ、多くの者は不思議を抱かなかった。


さて、ヒトは何を「知った」のだろうか。
花を見て、本当に花を知ったのだろうか。

花を詳しく知ろうとすれば、植物学者は花を細かく顕微鏡で分析していく。
また、花粉が受精して種子を作ることも、理解していく。
細胞を深くまで分析していけば、原子の世界、素粒子の世界に行き着く。
物質を構成している最小単位は何かという、話になっていく。

でもそれで、「花」をどこまで知ったというのだろうか。
花をどこまでも分析し微分していき、それを最後に寄せ集め、積分したとしても、それは真なる「花」に決してなることはない。
ヒトは花の多くを知ったつもりになっているが、それはヒトの時空の概念によって切り取られた、虚相世界の「花」を分析して「知った」にすぎない。

出発点が間違っているのである。
時空の概念に成り立った観念は、すでに真実在からはかけ離れた存在である。

本当に花を「識る」こと。
それは、「知る」ことではない。

幼児や動物や昆虫は、そこに「花」を見ても、「花」を知らない。
彼らは、花を自然から切り取らない。
目に花が映っても、そこには周囲から遊離した「花」が浮かび上がることはない。

そこには、時空のない「花」がある。
自然に融和した、本当の「花」の姿がある。

そして彼らは「花」とともに在り、「花」とともに生きている。


人間は、花を「知って」、花を「識らない」、唯一の生き物である。

分析の科学からは、何も識ることができない。
人間は、世界を知ろうと前進しているつもりで、日々暗闇の洞窟のなかを、知識という懐中電灯を灯しながら、悪戦苦闘して掘り進めているだけである。

懐中電灯は、しょせん暗闇を少しだけ照らす作用しかない。

知識という懐中電灯の灯りでは、洞窟の外にある、お天道様の明かりには、かなうべくもない。

人間の進むべく先は、前にあるのではない。
振り向けば、古びたつまらなそうな廃屋があるだけかもしれないが、その使われなくなった廃屋にこそ、真の宝が眠っているのである。

後には誰も目を向けないだけである。

時空がもたらした世界、「前進」し続けた世界、それが今の世相である。
誰がどうみても、そこに「幸せ」はない。
悲しみに対する喜びはあるかもしれないが、「歓び」はない。


「幸せ」は人間の背後にある。
「廃屋」の中には、「幸せ」を識るヒトを除く数多の生き物達が、歓喜の中に暮らしている。







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ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

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