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蟷螂が蝉を食らう

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カマキリがセミを捕まえ、もがくセミを両手のカマで押さえつけ、頭からむしゃむしゃと食べた。頭をかじり取られたセミは、数分で動かなくなった。

カマキリやセミを掴んだことのある人ならわかるだろうが、これはすごいことである。
軽い体重のカマキリが、自分よりずっと重く、それに羽をばたつかせて力を出しているセミを押さえつけて、逃がさないのである。
思わず、写真をとってしまった。

今までのわたしなら、何のためらいもなく、セミをカマキリから逃がしてあげていたことだろう。そして飛んで逃げるセミを見て、自分もほっとしていたに違いない。

しかし何故、逃がす必要があるのか?
セミはカマキリに捕まえられて、食われるのが可哀想だからか?
食われる姿を見て、勝手に可哀想だと感じる、自分の考え方に問題はないのか?

カマキリ=強者、 セミ=弱者、 食われる=死ぬ=可哀想

という図式が心にできていたのではないだろうか。

そういうカマキリは蛇に食われる。
蛇は鷹に食われる。

自然界の営みを、可哀想といっていたら、メダカがミジンコを食べるのも可哀想と云わざるを得なくなる。
かくいう人間も、肉や魚や鳥を食べ、植物の命を奪って生きている。
それも可哀想と云わねばならぬ。
可哀想だからと、食事を一切とることはできなくなる。

そもそもカマキリは強者なのか? セミは弱者なのか?
カマキリでさえ、上位の捕食者にから見れば、弱者となる。
強者は弱者となり、弱者は強者となる。
こうした人間主観のものの見方では、解決できる問題ではない。

弱肉強食・・・
これは、人間が勝手に名づけた、自然界の世界観である。
しかし、実際の自然は、弱肉強食ではなく、共存共栄である。
食うものもあれば、食われるものもある。
それが見事に調和して、個体数の調節を図っている。
そして、食うものは、必要以上には食べない。

カマキリは自分のことを強いとは思っていない。
セミも自分のことを弱いとも強いとも思っていない。
強い弱いは、人間が勝手に相対的な視点で考えた概念である。

カマキリはお腹がすいたので、生きるために食べた。
セミは、食べられた。
ただそれだけである。
捕まったセミは本能で逃げようとするが、人間のように生きることに固執はしない。
きのうに明日の死について、人間のようにアレコレ悩まない。
つかまったときに、一瞬断末魔の声をあげるだけで、素直に死んでいく。


人間は、自然の調和から分離した、異端の生き物である。
自然から離れ、都市を形成し、科学の力で自然を人間に都合よく制御できるものと考えた。
人間は、自然の一員であることを忘れてしまった。
人間が科学の力で分析した自然は、あくまで自然の中で分析した極微の部分であり、それを積分集合させて自然を理解したつもりになっても、結局それは人間主観の人工的自然であった。
本当に自然を理解するには、自然の内にいては不可能である。

井の中の蛙が、自分が井の中の世界をすべて理解したように思っているのと同じである。
井の中の世界がどのようなものかを理解するには、まず井の外から井というものを眺めてみなければならない。

本当の自然を理解するには、自然を外から眺めなければならない。
それは宇宙を外から眺めることである。
そしてそれは、宇宙の中にしか住めないわたし達人間には、不可能なことである。

絶対にわたし達は、自然の本当の仕組みなど理解できるわけがないのである。
わたし達が思っている自然の法則は、あくまで人間が自分たちの尺度で考えた、人工的自然の法則である。
もちろん、飛行機を飛ばしたり、人工衛星を打ち上げたりするには、これら人工的自然の法則で、できないことはない。
しかし、本当の自然、哲学的自然を理解することは、決して許されていないことを理解するべきである。

話を戻そう。
とにかく人間は、「知恵の木の実」を食べたときから、自然とは解離していく道を選んだ。
過去や未来を認識し、空間的広がりを認識し、そして何よりも「自己」という存在を強く認識したことが、「自」と「他」を区別する始まりとなり、その延長として、自然も「他」の仲間に入ってしまった。
人間は、すべてが「自己」に対する「相対的」な存在なのである。
相対的存在とは、区別、差別をすることである。

人間が「知る」というとき、それは「区別」することを表す。
そこにコップがあることを知るという場合、それは湯のみではなく、茶碗ではないことを、コップとは区別して知るということである。

桜の花を知る場合も、それは桜であって、梅の花や椿の花ではないことを区別して知るわけである。
桜の花がピンクであることも、それは赤や青でなく、他の色とは「異なる」ことを区別して、ピンクであると理解するわけである。

こうした相対的な「知る」は、あくまで人間的世界の知識の中で、区別することで「知った」に過ぎない。
本当に桜の花を知るには、どうしたらよいか。
桜の花も、わたしも、人間も、自然宇宙という絶対界の一つの「あらわれ」であることを理解しなくてはならない。
わたしと桜の花に、区別はないのである。
わたしも桜の花も、絶対界においては、同じ存在である。

そしてわたしが桜の花を知るということは、絶対にできないのである。
先ほども述べたように、絶対界の一員が、絶対界の上に立って、この絶対界を見ることはできない以上、それは不可能なことなのである。

わたし達は、桜の花を知ることができない。
しかし、知ることができないということを知ることはできる。
わたしも桜の花も、共存共栄。
わたしも桜を知らず、桜もわたしを知らず。
神の園である、この絶対宇宙自然の中で、ともに生きる同じ「あらわれ」であるに過ぎない。

桜を桜と区別することは、絶対界の座標にはない。
その座標は、人間が作った虚構の座標である。

絶対宇宙には自他の区別はない。
時空も存在しない。
ただひたすらに、「永遠の今」と「永遠のココ」があるだけである。

しかしながら、自他滅し、時空滅して後、そこには燦燦と輝く、桜がありわたしが居る。
人間が作った虚構の座標を消し去ると、絶対宇宙の園で生きる八百万の命は、歓喜に躍動する。
道端の石ころや雑草の一本も歓喜の雄たけびをあげはじめる。
常に「今」と「ココ」に生き、存在する、二つとない素晴らしき存在なのである。
「アッチ」にもある存在ではない。
「きのう」も見た存在ではない。


わたしは、蟷螂と蝉の、いかほどを知っていたと言えるだろうか?
答えは・・・何も知らない・・・のである。

絶対界の共存共栄の営みに、人間だけの相対界の主観で、口を挟む権利は毛頭ないのである。
食われるセミを可哀想としか思えない、そのわたしこそ、「可哀想」なのである。
自然から解離する道を選んだ人間こそ、可哀想な生き物である。

大自然、絶対宇宙の営みを拒絶した人間は、その現在を見てみれば答えは自ずとわかる。
天変地異、自然破壊、異常気象、就職難、自殺者増加、うつ病の増加・・・
不幸のオンパレードである。

これが科学を盲信し、自然を相対視して制御しようとしてきた人間に回ってきた、罰である。
人間は自然と共にしか生きられない。
今からでも「自然復帰」するしか、生きていく道は残されていないのである。

庭の片隅で営まれた、小さな小さなできごと。
しかし、そこには宇宙自然の真理が隠されており、人間が学び改心すべき内容が指し示されている。
セミを可哀想と思い、カマキリを憎む。
それこそ、神の園で生きる資格はない。
虚構にまみれた人間主観の、相対的世界にまみれた、汚れた心なのである。

カマキリやセミは純粋に、絶対宇宙の一員である。
彼らは神の御心に沿って生きている。
いや、神そのものともいえるかもしれない。

神から捨てられた、いや神を捨てた人間は、カマキリやセミにならなければならないのである。
カマキリとセミと人間は、絶対矛盾的自己同一。
人間はカマキリになれるし、セミにもなれる。
しかし、お互いのことを「知る」ことはできない。
その意味の示すところは深いのだ。

「自然復帰」という言葉も単純ではない。
単に自然の中で生きればよいという意味ではない。

「知る」ことを求め続けている人間には、実に果てしなく遠い道のりである。



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ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

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