スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「対決」の果て

オリンピックでは、スポーツによる「対決」が熱を帯びて喧伝されている。
政治の世界でも、増税問題を中心とした内政上の「対決」、領土問題を始めとする外政上の「対決」が目についてきている。

「対決」とは何であろうか。
私たちは、あまりにも簡単に(考えることなく=感情的に)、対決の世界に踊らされてはいないだろうか。

元々、対決は自然界にはつきものである。
野生生物は、生まれながらにして対決の「生」を歩む。
それはまさに、生きるか死ぬかのレベルで、対決を繰り返して生き抜いていく。
怪我や病を背負えば、すなわち「死」が待っている。

弱肉強食である。
しかし自然界は、不必要な「欲」を持たない。
本能に基づき、一定の食欲が満たされれば、それ以上の無用な「対決」は避けるようになっている。
種の頭数も、弱肉強食による自然淘汰で、多少の増減はあっても、うまい具合にバランスをとっている。
この観点から世界を見れば、弱肉強食は共存共栄ということになる。

世界の中で、唯一特殊な生物が「人間」である。
なぜなら、人間だけが「不必要な欲」を持った生物だからである。
生きることの他に、余分な「富」、「財」などを蓄えようとする(死んだら自分のために使うことは出来ないのに)。
それを、人間特有の高度な(?)、知恵、知能のせいにするのは簡単だ。
しかし、知恵は知恵でもそれは猿知恵の範疇であり、決して叡智である「智恵」ではない。

繁殖に伴う「欲」も、一般的な哺乳類や鳥類では、繁殖期として年1-2回が普通のようだ。
人類のように、年中発情可能な生き物は、特殊と思われる。

こうした、特殊な「欲」を発現した生物、それが人間である。

繰り返すが、生きるということは、対決の歴史でもある。
しかし、その対決は、弱肉強食かつ共存共栄であることが必要であり、弱肉強食一点のみの対決は、最終的に破滅を招く。

「自」らが生きるためには、必要最低限の「他」の犠牲が必要である。
「他」の犠牲により、「自」が生きる。
この点において、生きるということは、自他の別あれど、而して自他の別はないのである。

相手が存在するから自分が存在する。
サッカーも、敵がいなくては試合にならない。
対決とは相手があってこそ成り立つ。
相手をリスペクトするとは、共存共栄の精神である。
敵を打ち負かすだけで得意気になるのは、弱肉強食のみの稚拙な精神構造である。

とにかく、生きるためには対決は必至なものではあるが、いかに「敵」と共存共栄するかが、「自」が生き続けていくために重要なことなのである。
対決だけに突き進むことは、最終的に地球滅亡につながる。
気に入らぬ相手をすべて打ち殺していけば、最後は自分以外何も存在しなくなる。
相手がいない世界で、己は生きていくことができない。

本能の働きにより、自ずと対決がコントロールできている自然界の生物に比べ、本能の箍が外れ、「不必要な欲」の塊となった人間は、それでも自らのことを「高等」生物と呼べるのであろうか。

共存共栄的弱肉強食は、絶対矛盾的自己同一である。
一存他排的弱肉強食は、絶対矛盾的自己矛盾である。

この世界は、絶対矛盾的自己同一の世界である。

人類には、世界で日々繰り返されている、様々な「対決」に内在する本質を、「智恵」を使って考え直してもらいたい。
ただ単に、「対決」に一喜一憂、振り回される日々は、個の対決結果に関わらず、それは全体の破滅に繋がるレッドカーペットでしかない。

地球の歴史上、最も愚かな生物=人間として、宇宙人に記録される日も近いであろう。


スポンサーサイト
カレンダー
07 | 2012/08 | 09
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
最新記事
カテゴリ
最新コメント
月別アーカイブ
プロフィール

ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

リンク
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
FC2カウンター
FC2ブログランキング
↓ランキング参加中。クリック応援よろしくお願いいたします。

FC2Blog Ranking

ブロとも一覧
世界のなかのみんな
検索フォーム
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。