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時空の幻想



時間や空間は、本当に実在するものだろうか。

当たり前のように、わたし達はきのうの世界を思い浮かべることができる。
思い起こせば、何年も前の楽しかった記憶、忌まわしい記憶も思い出すことができる。
間違いなく、その時点の世界と、現在自分が息を吸っているこの世界とは、時間軸が異なっているように感じる。

過去の世界から時間が経過したため、現在があるように思っている。
一方、過去はしっかり思い出せるが、未来は想像の中だけでしかない。
現在は、時計の針のように常に進行しており、きょうから見れば、明日は未来である。
しかし、未来をすぐに頭の中で確定できるわけではなく、鈍行列車に乗っているがごとく、「現在」の世界が常にスライドしていって、明日になるのである。
従って、自分にとっては、未来は言葉だけの世界であり、自分は常に現在に存在するしかないのである。

過去の世界は、未来とは違い、はっきり思い出せる。
わたし達が、時間の存在をそれとなく常識的に認識しているのは、この過去の記憶にある。
きのう自分が生活していた世界を、細部まで明確に思い出すことができる。
他人と話した内容、相手の表情まで思い出すことができる。

きのうと今と何が違うのか。
それは時間が経ったからだ。

しかし、不思議なことに、明日に関しては、必ず存在しているものとは、捉えていない。
それは記憶として確定していないからである。
記憶にないものは、実際に「ない」ものとして認識されている。
わたし達は、明日が必ず来ることがわかっているが、それは過去の経験に基づく、確固たる類推のおかげである。
そして、その過去の経験を強固にしているのは、もちろん記憶のなせるわざである。

時間が経つという認識・・・
それは、記憶が司っているといえるのである。

もし記憶がなされなければ・・・
過去を感じることはできない。

過去という概念がなければ、未来という概念も、そして現在という概念も持つことはないだろう。
過去がなくても、未来は想像できるのではないか?
否。
想像とは、経験、記憶に基づくものであるから、記憶することを知らなければ、想像することは決して不可能である。
つまり、相手から話しかけられた言葉でさえも、記憶することができないわけであるから、会話が成り立つことはなくなる。
自分の死を想像して御覧なさい、と言われても・・・
その言葉を理解することができないのである。

記憶が無縁の人にとっては、自分が立脚しているのは、常に「今」であり、その「今」という概念でさえも、実は理解するところのものではないのである。

つまり、過去から未来へ「時間が流れる」というような理解はされず、時間という存在を認識する必要も考える必要もなくなるのである。

こうして考えると、時間とは、生物の(人間以外の生命も考慮に入れる)「記憶」という作業に基づいて、その生物自身が生活しやすいように、うまく説明された潤滑油のような概念ではないかとも考えられる。

人間はじめ生物は、記憶するのが当たり前であるから、当たり前のように時間という概念が考えつかれたのである。

もし世界に記憶がなければ、世界に時間など無いのである。
つまり、生物の中にだけ存在する仕組み、それが時間である。
時間は決して宇宙の本質ではない。
敢えていうならば、そこには「永遠なる今」しかないのである。


空間についてはどうであろうか。

空間は当たり前のように「ある」と思われている。
ぐるりと周囲を見回しても、机の向こうにドアがあり、右手には本棚がある。
それは空間が広がっているということではないのか。

ここでわたし達が空間の広がりを認識する仕組みを考えてみる。

今は当たり前のように、遠い近いを認識しているが、経験が形成される以前の赤ちゃんだった当初はどうであろうか。
意識の中で、ハイハイして、あっちへ行こうとする。
赤ちゃんはハイハイする直前の位置を「記憶」しているため、ハイハイして向こうへ辿り着いた今、前と今ではお母さんのいる場所が変わっていることを認識する。
現在と過去とが異なる世界であると認識している。
これはつまり、時間が経過したと認識することである。

記憶があるから、「移動」という言葉も出てくる。
移動という概念がなければ、広がりという概念も出てこない。
遠近も消えてなくなる。

記憶がなければ、自分の今いる場所の、周囲との関連付けによる空間的認識は無い。
自分のいる場所の認識が無ければ、その後歩いて移動したとしても、つねにそれは「ココ」であり、「アッチ」から「コッチ」にきたわけではない。
さらに、常に「ココ」であることは、「ココ」という概念すらなくすはずである。
つまり、敢えて言うならば、世界には「永遠のココ」しか存在しない。

時間は流れるのではない、空間は移動するものでもない。

時間が流れ、空間を移動するのは、記憶があるからである。
記憶がある生物が、生きていくことを都合よくするために、時間や空間の概念を持つに至ったのである。

宇宙の本質に、時間も空間も無い。

宇宙には本当は、何にもないのである。
宇宙に色々作ったのは、他ならぬ人間である。
人間は、宇宙のことを色々知っているようにみえて、実は何にも知らないのである。

知らないということを知ることが、本当は一番大切なのに、人間は釈迦の掌の中で、今も色々なことを知り続けている。




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プロフィール

ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

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