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不知の知

「はやぶさ」が帰ってきた。
故郷を遠く離れ、極寒の宇宙でひたすら指示を仰いでミッションを完遂した。
ようやく近づいた故郷はまばゆいばかりに明るかった。
最後に地球を撮影した画像は、感動的だった。
わたしも多くの日本人と同じく、「忠犬ハチ公」のような感動的な秘話に、涙した。


確かにすごい。
宇宙に放ったラジコンが7年かけて手元に戻ってきたのだ。
宇宙の法則を緻密に計算しつくさねばできない芸当である。

科学の進歩である。
しかし、科学の進歩というものは、常に考えさせられるものであった。

それは必ずしも人間を、世界を、幸せにしてきたとはいえないからだ。
「便利」を追求して、環境破壊を産み、地球を壊滅させようとしている。
精神的には、差別とストレス、我欲の増大を産み、人間精神を破壊しようとしている。

そもそも科学が明らかにした法則で、宇宙や自然がすべてわかったかのような錯覚をもっている人間側に問題がある。
科学が明らかにした法則は、それがどれほど精緻で革新的であったとしても、決して宇宙や自然そのものを明らかにすることはできない。
科学が明らかにした法則は、結局のところ、宇宙や自然に対し「人間」という色眼鏡で切り取った尺度で解釈したものに過ぎない。

なぜか。
人間も宇宙、自然の「本質」の一部であることを忘れているからである。
人間自身も自然であり、宇宙であるのだ。

例を挙げてみる。

井の中の蛙は、井の中の世界をどれだけ詳しく分析しても、井の外に広がる世界を想像し理解することはできない。
わたし達人間の血液である血球は、体中をめぐり「わたし」の体の内部をどれだけ詳細に観察することができたとしても、その「わたし」が目にしている世界や考えている思考については、決して理解することができない。

わたし達人間が、宇宙や自然の一部である以上、宇宙や自然を外から眺めることはできない。
外から眺めることができない以上、宇宙や自然そのものを理解することは、絶対に不可能なのである。

科学は分析から始まった。
細胞一つ、土くれ一つ、調べることから、生物全体、宇宙全体を理解しようとした。
その結果、医療は進歩し、宇宙技術も進歩した。

多くの「病気」は治療薬が開発され、宇宙に旅立ったラジコンも戻ってくるようになった。
これらは、人体の法則、宇宙の法則を見つけ出さなければ、絶対に有り得なかった所産である。
しかし、決してそのことが、人体を「知り」、宇宙を「知った」ことにはならない。
あくまで、人間の「目」で切り取った、人体や宇宙の一部を見ているに過ぎないのである。

宇宙や人間、動植物、またすべての有機物無機物に至るまで、この世の自然は、常に人智の外にあるのである。
科学が進歩し、遺伝子研究も進み、人間は新たな生命を創ることも可能になった。
物理学では量子力学が盛んになり、素粒子の見えない世界まで数式を作ることが可能になった。

人間にできないことはない。
人間は宇宙を支配することもできるのだ。

そう思うのは、まさに猿智恵というものである。
結局は、釈迦の掌中で踊っているに過ぎない。

科学は分析であり、常に「相対」的な姿勢で、自然に挑んできた。
しかし、元々が宇宙や自然の一部であるわたし達は、宇宙や自然の部分部分に相対することはできても、その本質に相対することができない以上、その考えには限界があったのだ。

わたし達は「知っている」のではなく、「知らない」ことを知らなくてはならない。
不知の知である。

宇宙とは、すべてが同根異相、別なくして一つ、絶対矛盾的自己同一なのである。

宇宙、自然の本体は、決して人間が理解できる代物ではない。
宇宙人でもそれは同じことである。
宇宙、自然の本体を極めようとして、子供が砂場に作ったお山のてっぺんを富士山の山頂だと思い込んだ。

相対の科学の限界はここにある。
宇宙は絶対、自然も絶対、人間も絶対、この世のすべてが絶対の世界に生きて存在していることを理解しなくてはならない。

相対は差別を生む。
絶対は無差別である。

明るくて暗い。
近くて遠い。
広くて狭い。
プラスであってマイナスである。
嬉しくて悲しい。
過去であって未来である。

すべてが「差別」されることのない「同一」である世界。
分けられることのないひとつの世界。
すべてが絶対である世界。

それは宇宙や自然の本体そのものでもある。
西田幾多郎は、その世界を「絶対無」とよんだ。

相対的な目で世界を見ようとすれば、いくらでもできる現在の世界。
自分以外の人間は他人であり、それは相手を相対的な観念で見ていることによる。
除草剤を撒いて草を枯らすのは、草を相対的な邪魔者だと考えているからに他ならない。
病気に対し薬を盛るのは、病気を厄介者と相対的に捉えているからに他ならない。

そうではないのだ。
わたしもあなたも、ウイルスも土くれも植物も動物も金属も、すべてが絶対なのである。

「絶対無」は、遠く手の届かない場所にあるわけではない。
時間的空間的差別もないわけである。
絶対無の世界は、わたし達自身でもある。
釈迦の掌といえども、釈迦は釈迦なのである。
釈迦を見ることはできないかもしれないが、釈迦の存在を知ることはできるのである。

こうした不知の知、絶対の観念を持ち得るのならば、科学の進む方向も変わったのであろう。
相対が絶対を極めれり、と考えた瞬間におかしなことになっていったのである。


はやぶさは素晴らしかった。
だからこそ、小惑星の砂の分析がすべてにならないで欲しい。
きっと燃え尽きたはやぶさ君も、そう願っているはずだ。
わたし達人間も絶対、はやぶさ君も絶対、小惑星の砂も絶対なのだから。

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プロフィール

ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

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