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ついに六郎だけに

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脱皮して大きくなった六郎。
まだ終齢幼虫にしては小さめです。

餌場のコウシュンウマノスズクサには、六郎だけです。
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みんなどこかに消えてしまいました。
あ、ここに一人いました。
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さなぎになる場所を決めたようです。
もう、じっと動きません。

ところで最近、カマキリくんが多いのです。
寒さのせいかほとんど動きませんが、勇ましさだけは変りません。
卵を産みつけたのか、生みつける場所を探しているのか、はたまた相手がいなくて彷徨っているのか、それはわかりませんが。
今年は、こんな時期になっても特に目立ちます。
ほかのバッタなどはとっくに姿が見えないのですが。
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青空の鳥

青く青く どこまでも深い 群青の空
高く高く 天を目指し 舞い踊る2匹の鳥

1羽 風に乗り ゆうら ゆうら 
1羽 追いかけて ばった ばった

羽の向こう 太陽のひかり きらり 
足もとの大地 ちょっと長い影法師
ぴゅるる ぴゅるぴゅる 秋の寒風 

餌を探すでもない
敵を恐れるでもない

そこに流るるは 悠久の時間

目に入るのは ただ あなたの姿
感じるのは ただ あなたの心

肉体を忘れ こころ 空に舞う

いのちの姿 見た気がした
いのちの意味 わかった気がした

今年は六兄弟

うまのアリス園では、通り渡る寒風が木々の葉を日に日に吹き飛ばし、いよいよ冬が近いことを感じさせます。

現在、ジャコウくんは、6頭おりました。

ウマノスズクサを食べつくしてしまったので、とっておきの保存食、コウシュンウマノスズクサを召し上がっておいでです。

太郎
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次郎
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三郎
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四郎
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五郎
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六郎
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 六郎はまだ3齢幼虫で、彼だけ成長が遅れています。
 
 順調に育てば、太郎から五郎までは先に姿が見えなくなり、六郎だけがまだしばらく、最後の1頭となって、目を楽しませてくれそうです。

 2007、2008 とも最後は双子のように、太郎と次郎でした。
 今年は兄弟が多くて、みんな楽しそうです。
 六郎だけが、最後寂しいかな?


評価と創造と愛


評価を気にして生きていくのは、つまらないかもしれない。
しかし、評価は「チカラ」となることも確かなのである。

ヒトは思考の力で世界を変えていくことが可能な唯一の生き物である。
ヒトが良くも悪くも世界を創造していく以上、ヒトによる評価は、自分がこの世に何を残していけるのか、ということに繋がる。
自分が世界に対して良かれと思ってやったことでも、それが「評価」されないものであったならば、自分が死んでしまえば誰も後を継ぐものはいない。
それは自分が生きている間だけの、自己満足といわれる代物と同等でさえある。

ヒトは個体としては有限の存在であるわけであるから、世界において時間的永続性かつ空間的浸透性を獲得するためには、個の力から集団の力がどうしても必要となってくる。
集団の力を得ること、それは他でもない「評価」である。

ヒトは所詮ヒトでしかなく、ヒトを超える存在には決してなり得ない。
ヒトはヒトの集団における評価を得ることで、ヒトの世界に生きる「力」を得ていく。
評価を得ることは、自分の思いを世界に残し、伝えることができるということでもある。
「世界のためになることをしたい」と自らが考えるならば、それは結果としてヒトからの「評価」を集める必要がある。
評価を持たない事象は、趣味の範疇である。

では、どうやって評価を集めるか?
ここで最初の一文が思い出される。
評価を気にして生きていくのはつまらない。
逆説的だがその通りなのである。
評価を得たいがために、最初から評価を気にして物事に従事していては、結局「本質」を見失い、そして自分も見失う。
評価を得るということは、まず確固たる自分を持つことでもある。
自分の本質を追及し、反省を繰り返しながら、常に前進し続けることこそが大事である。

その上で、どうやってヒトにアピールして評価を集めるか、ということが焦点となる。
それには「工夫」が必要だ。
動植物は、生まれながらにして、このアピールするという本能を持っている。
オスがメスに対して行う、派手な求愛行動もそうである。
植物も、昆虫に花粉を運んでもらうために、相手に目立つような色や形、臭いを持つ花を咲かせる。
これらはみんな、「アピール」だ。

自分の目指すものをどうやってアピールするか、その方法を工夫することで、同じことをやっていても評価が得られるかどうかが分かれる。
ここにおいて初めて、評価を得るために考えながら行動することが必要となる。

(自己の本質の追及)×(アピールの工夫)= 評価

といえるだろう。
前者が100でも後者がゼロならば、評価ゼロである。
両者は掛け算が基本であり、決して足し算にはならないところがミソである。

評価を得ること、それは自分が消滅しても、自分の目指す本質を他のヒトに委譲して存続させていくことができることである。
ヒトが世界を変えていく。
ヒトに如何に自己の本質を理解してもらうか、つまり高い評価を得るか、ということは、自己の有限が無限性を獲得することに繋がり得るのである。

本当に世界のためになることをしたいのならば、ヒトを嫌っていてはならない。
ヒトを理解させることができなければ、結局、自分の中だけの世界で終わってしまう。
たとえば、どんなに貴重だと自分が思っているものを収集しても、それが「評価」を得ることができないものであれば、自らが死すれば、収集品はただのゴミとして処分されてしまうであろう。
ヒトからは評価の対象とならない、つまりはゴミとしか見えないのであるから、仕方がないのである。

世界のためを思うならば、ヒトにアピールする努力も同じくらい大切なのだ。
内容がないのに評価を気にするのはナンセンスであるが、それなりの本質を持つものであれば、こうした一見「くだらない」努力も十分大切なことである。

そして、評価を勝ち取ったものこそが、世界を「創造」していく力を得るのである。
「人は石垣・・・」 と歌った武将がいたが、まさにその通り。
ヒトを大事にし、ヒトを残す、ヒトに残す。
それができてこそ、真の自己実現となるのである。

小さなひとつの存在である自分が、世界のためになるということは、自己との戦いを制し、そして評価を得るための工夫を重ね、肯定的な評価を獲得することが大切なのである。

「評価」は最初から気にしてはならないが、人生の佳境に入れば必ず考えなくてはならない「変数」として、「自己実現方程式」の前に立ちはだかるのである。

気にしすぎても、無視してもいけない。
上手につきあっていくことが最も大切な扱いにくい存在、それが「評価」でもある。

世界のためになることをしたければ、常に、この相、矛盾する2つの事象を考慮して生きていかねばならない。
これも「絶対矛盾的自己同一」なのだ。

逆に、利己的な生き方を世界の全員が行ってしまえば、世界は破滅してしまうであろう。
世界が程よい均衡を保ちながら時を刻んでいられるのは、世界のためになる=相手のためになる=他己的、なことを考えて生きているヒトたちが少なからず存在しているからである。
そう考えれば、世界のためになる=相手のためになる、つまり =思いやりや愛、それが =共感を得る、評価を得るということであるわけであるから、これらすべてに等量式が成り立つことになる。

相手から評価を得ることは、自らが愛を与えることでもあるのである。
こうして考えると、本当の愛があるヒトは、ヒトから評価も得られる人物であるはずである。

無償の愛という言葉がある。
評価は愛の目的ではないけれども、しかし愛の必然なる結果の一部に評価があるのも事実である。
愛のある本質ある人間が、アピールする工夫を持てば、評価は自然とついてくる。
そして高い評価はヒトの心に同じ思いをシンクロさせ、シンクロした多くのヒトのパワーが世界の創造の担い手となって、地球の未来を変えていくのである。


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プロフィール

ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

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