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・・・それでも何も変わらない

政権交代
真夏の終わりの茶番劇
だからどうなるというんだ?

まるで合成写真のごとく、顔を変えても胴体は変わらない。
せっかく国民が「交代」を期待しても、世界支配の仕組みは決して変わることがない。
この国はこの国により決められているのではない。

第2次大戦を負けたときからではない。
鎖国を解いたときから、わが国はすでに「世界支配層」の部下に成り下がっているのだ。
顔が代わっても、結局は彼等の言うなりに動いていくだけだ。
彼等にとってはどうでもいい目先の政策を、少し変わって見せるだけだ。

テレビの報道に惑わされてはならない。
さも歴史的大事件が起こったような雰囲気を醸し出そうと躍起になっているようだが、選挙だけでは、決して「何も変わらない」のである。

本当に変わらなければならないのは、わたし自身、あなた自身、すべての「自分」という意識、時空の結ぶ目なのである!

今しなければならないこと。
これからの激動の時代を生き抜くための、勇気と心構えを、自分の運命から逃げずに前向きな気持ちで準備していくことである。
今この時間とこの空間に生を受けていることこそ、自分が享受しなくてはならない運命、自分という神からの真の贈り物なのである。

自分が信じた道を生きよう。
感じた心に沿って生活しよう。

わたしは今、山に広い土地を購入することを模索している。
カネの価値はいつ変わるかわからない。
インフレが近いことも、しっかり情報を集めていれば昔から予測できている事実。
政権が変わっても、お札を輪転機で回している所は変わらない。
世界の政治を決めている集団も、日本の政権が変わったところで変わらない。

政権に期待するのではなく、自分がどう感じ、どう生きるか。
それがこれからの時代に一番大切なことであると思う。

現在や未来は、政府や政治によって作られているのではなく、命ひとつそれぞれが時空を作り、現在と未来を日々創造し続けているのである。
変化の芽は外にあるのではなく、自分自身の心の中にいつでも芽吹こうとしているのを忘れてはならない。


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或る夜のこころ

大不況、大震災、大洪水、新型インフル・・・

暗い話題ばかりが目につく最近である。

でも、ちょっと待てよ。
大不況といっても、何をもって大不況と云っているのか?
赤字決算、個人消費の落ち込み、株価の下落・・・?

いずれにしても、数字で表わされる「結果」によって、不況だ不況だと世間は騒いでいるわけである。
また、そもそも不況などというものは、人間種のみに存在する世界観である。
トリやムシ、ドウブツにとっては、不況などは関係がない。
そしてわたし達は、不況という概念を、ニュースを通して「洗脳」されることになっている。

つまり、各「結果」の数値、そしてそれを広めるニュースという「ものさし」が無ければ、不況という2文字は広がりを持たない。


次に、新型インフル。

世界にインフルというものを発見する科学力が無ければ、そもそも「ただの風邪」としかヒトの目には映らない。
ここでも、インフル検査キット=ものさし、と言い換えることが出来る。


次に地震。

ここでも、マグニチュードとか震度という、ものさしが登場する。
さらに、地震予知が民間レベルで飛躍的に進んでいるため、「近々どこそこが危ない」などと情報が飛び交う。
しかし、これも電磁波やイオン測定など、すべて科学のものさしにより導入されたわけである。
縄文時代の人間であれば、遠くから聞こえる地鳴りの不気味な音や、真っ赤に燃える夕焼けなどを見て、ぼんやりと異変が近づきつつあるのを感じたことであろう。

そして、とにかく毎日を生きていくしかなかったわけである。


現代は、とにかく、情報=ものさしが多い。
株価が下がった、為替が上がった、あの企業が倒産しそうだ、インフルが大流行だ、地震が来そうだ、ドルが崩壊しそうだ etc.  
ヒトを不安にさせる環境が、大変便利に整っている。

でも、怪情報が飛び交っても、ヒトはただ毎日を生き抜いていくしかないのである。
ものさしがなければ、惑わされることも少なくなる。

ヒトを一定の型にはめようとする、様々なものさしが身の周りに満ち溢れているが、本当に必要なのは、自分のものさしである。
「自分ものさし」は、自分が生きていくために必要な夢と希望と哲学を示してくれる。

世界を測るものさしとしてテレビや携帯が必要なのではなく、自分を測るものさしを手に入れることが、さらに重要なのである。

世界を測る前に、自分を測れなくては、世界もへったくれもないのである。
世界は自分、自分が世界なのである。

とにかく日は昇り、日は暮れる。

世界がどんなに「不況」でも、どんなに「大災害」「大飢饉」「伝染病」が流行ろうとも、時間は同じように進んでいく。

自分は1日、1日を暮らしていくしか、方法は無いのである。


とにかく生きる。
生きるとは何であろうか?

この世界に命を授かっている、すべての生き物達は、今という同じ時間と空間を共有し、互いに感じあうことが出来る、数少ない友達、魂の共同体だ。

しかし毎日多くの命が、仲間から脱落し、「死」んでいく。
そう、あなたがさっきパチンと叩いて殺した「蚊」も・・・

ヒトは「仲間」の死を悼むが、生きていくということは前を向いていくしかない。
死者はしばらくすると、どんな偉大な人物でも忘れ去られていく。

たとえば、M.ジャクソンさん。
もう、すっかり忘れられていないか?
日本の社会は、らりpのクスリ事件で最近は持ちきりだった。

それでいいのだ。
死者は忘れ去られ、次なる命の土台となり基礎となる。
常に、「生きる」者達は、前を向いていかねばならないのだ。

そんな前を向くわたし達の足取りを重くさせる、様々なものさし。
ものさしを持ちすぎたり、使いすぎたりすると、それはものさしではなく、「足かせ」となる。
前に進めなくなる。

自分が前に進むための、自分仕様のものさしを持つこと。
それが最終的に、世界を前に進めていくことにつながるのだ。

とにかく生きること。
生きている以上は、当たり前のようだけど、生きることが大事である。
「生」から脱落したら「死」が待っている。
しかし、「生」と「死」は裏返しだが、絶対的に相反する事象である。
生は死を忘れる。
そして死は生を追いかけない。

ヒトは死ぬために生きるのではない。
生きるために生き、死ぬために死ぬのである。

どんなに世界が変化しても、どんな毎日になろうとも、「命」与えられた者は、ただ生きるしかないのである。
これは苦しみでも牢獄でも運命でもない。

こうした事象をすべて受け入れて、恐れなく「生」を表現していくことこそが、自分という宇宙そのものの「幸せ」である。
恐れない「生」は、恐れない「死」となり、それも自分宇宙の「幸せ」である。

宇宙は「幸せ」を求めている。
その幸せを具現するのは、自分次第、つまり自分ものさし次第である。

きょうも1日、「生」きることができたことに感謝しよう。
世界のものさしが何を測ろうとも、きょうの自分ものさしは、自分を幸せに出来たであろうか?
毎日己の心に問いかけて、反省と感謝を胸に、夜の眠りにつくことにしよう。


オオミズアオとの再会

外は土砂降りの雨。
国道も下水道から溢れる雨水で冠水していた。

いつも立ち寄るセルフスタンドで、何気なく釣り銭受けに手を入れたら、何やら白っぽい紙のようなものがすぐ横に張り付いている。
ちらしの紙?
ではなく、よく見たら、「オオミズアオ」が釣り銭受けで、翅を休めていたのであった。

おそらく、夜、スタンドの灯火に飛んできたのであろうが、折りしも激しい雨が降り始め、朝になっても飛び立てずに、雨宿りを決め込んでいたのだろう。

それにしても、私の前にこの給油機を使ったヒトは、気づかなかったのだろうか?
それとも気持ち悪くて、手を触れずに、釣り銭だけ慎重に取り出したのだろうか?

オオミズアオは、ヤママユガ科に属する、大きなガである。
ガと聞くと、拒絶反応を示すヒトが大半であろうが、オオミズアオは大変美しいガである。
透き通るように白青く、一見アゲハのような形の曲線美ある翅を持つ。
翅を広げれば、幅10センチ程度はある。
ヤママユガ科に属するガには、あの国指定の天然記念物、与那国島の「ヨナグニサン」もいる。
そして本州にはヨナグニサンの小型版ともいえる、これまた幼虫が白く妖精のように美しい「シンジュサン」がいる。
ついでに言っておくと、小型版とはいっても、普通のヒトが見たら腰を抜かすほど十分大きい。

久しぶりにオオミズアオを見て、懐かしくもホッとした、あたたかな気分になった。
昔は、いなかの公衆トイレや旅行先で民宿の軒先などに、よく飛んできているのを見ていたが、最近は全然見る機会がなかった。
シンジュサンについては、小学生のときに見て以来、とんとご無沙汰である。

調べたら、いずれも個体数が減少しているらしい。
幼虫の食樹は、庭や街路樹にもある一般的なものだが、なんせ一本の木に大量発生して、さらに一匹の食べる量が半端ないので、木があっというまに丸裸になってしまう。
よって、害虫として、すぐに農薬が散布されてしまうのだ。
というか、幼虫がつく前に、害虫が発生しやすい庭木や街路樹は、大抵が事前に農薬処理されている。

基本的に農薬が撒かれず、人為的に駆除されない、山の中でしか生息できなくなっているのだろう。
たまに市街地で発生することもあるのだろうが、その数はかなり少ないように思う。

オオミズアオは人懐こい。
きょうのオオミズアオは、指を伸ばすと、指に這い登ってきて、ちょこんととまってくれた。
しばらく眺めていたが、釣り銭受けに返すわけにもいかず、どうしようかと思案していたら、わたしの気持ちを察したのか、彼のほうから突然、雨の中に飛び立っていった。
可哀想なことをしたなと思ったが、運のよいことにそのすぐ後から、雨は小雨になり、車を走らせて10分もすると雨は上がってきた。
まるで雨の中を空高く舞い上がったオオミズアオが、降りしきる雨を止ませたかのようであった。

なんでも大きなものは、理屈抜きにその存在だけで美しく、そして他を圧倒する威厳をもっている。
トリバネアゲハが蝶のシンボルであるとすれば、オオミズアオもシンジュサンもヨナグニサンも、ガのシンボルであり、そしてまた大自然の健康バロメーターでもある。

皆さんも、もし自宅や自宅近くの公園や街路樹などで、もし彼らの幼虫を見つけたら、是非、大事に持ち帰って、飼育してみて頂きたい。
飼えばなおさら、親近感がわく。
そして自然の神秘に触れることができるはずだ。
特にこのような大きくて美しい翅を持つものは、それだけで神々しいオーラを出している。
幼虫がわからなければ、検索すればすぐに出てくるので、各自でお調べいただきたい。


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プロフィール

ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

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