スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

未来の花

時間とは不連続の連続であり、時間の自己同一である「永遠の今」の場において、過去、未来が現在という一点に集約されているものと考えられるものならば、現在の中に過去と未来がすでに内包されていると考えるのが自然であろう。
現在は過去であり、現在は未来であるのである。
過去は記憶にしまわれている。
では、未来はどこにしまわれているか?

未来がしまわれているのは、各人の「心」の奥である。
魂と呼べるものに近いかもしれない。
そこは、過去のように考えて(思い出しながら)辿り着ける領域ではなく、ひたすら「感じる」ことで巡り合うことができる場所。
自己の内なる声に耳を傾けるのである。
脳みそで考えてしまってはいけない。

「心を感じる」ことで、未来はすでにわたし達の前に示されているのである。
逆に言えば、感じることができる「心」を育てることが、大人になる上でとても大切なことである。
未来に従って、自分の生きる役割が見えてくるからである。
生きる希望や生きる意味は、自らの心の奥に示された、未来の中に示されているのである。

もしも、そこまで感じることができないと思う人は、まず自分が「気持ちいい」と感じる方向に、人生を進んでいけば良い。
きっとその方向に、「未来の花」は咲いているはずだから。

自分とは、無限の可能性を秘めた、時空を超越したこの世界そのもの、またはこの世界の分身なのである。



スポンサーサイト

わたしの神さま

感謝を心がけていると、「よい気分」になる。
ありがとうが創る世界・・・

よい気分は、自分が望む出来事を引き寄せる。
みんながお互い、ありがとうの気持ちになると、世界は住み良くなる。

コンビニに食べ物が並んでいるのを見て、ありがとう。
郵便が届いたのなら、ありがとう。
朝、目が覚めたのなら、きょうも一日ありがとう。
友達に出会ったのなら、ありがとう。

辛いことがあっても、試練を与えてくれてありがとう。
病気になっても、健康のありがたさがわかって、ありがとう。
お金がなくても、生きて呼吸ができることに、ありがとう。
世界が、あなたが見えることに、ありがとう。

悲しいことも嬉しいことも、辛いことも楽しいことも、みんなみんなありがとう。

ありがとうと言えるから、わたしは生きていけるんだ。
きょうも明日もあさっても。

いつまでもありがとう。
感謝の気持ちを忘れずに。
みんながいて、そしてこの世界があることにありがとう。

いつのまにか、感謝するあなたは、この世のミケランジェロになっていることでしょう。
心、気持ち、情動、思考が、量子を動かし、この世を創っていく。
よく創るも、悪く創るも、それはあなたの思考、気持ち次第なのだ。

正しい思考、よい気分は、実際に望ましいよい世界を引き寄せて、よい現実を創作していく。
「運命」は、待つものでも、すでに存在しているものでもなく、わたし達自身が自らの心を通して、手につかんでいくものなのである。
そうした意味で、わたしという存在は、時間や空間を超越した存在であり、わたしはこの世界の「最高傑作」なのである。
そして、常にきょうという日が、わたしにとって「最高傑作」であるように、感謝し満足して、生きていくことが大切なのである。
逆にいえば、感謝し満足することを覚えれば、毎日が自分の「最高傑作」であり続ける。

そうしたあなたは、もはや自分の外に、「神さま」を必要としない。
自分の内なる心に、いつもわたしの神さまが見守ってくれていることに、すでに気づいているはずである。

この世とあの世

因果応報とはよくいったものである。

この世の物質の究極のミクロな粒子である量子は、突然、無から生じ、また突然、無と消えるそうである。
エネルギー保存の法則からいえば、消えて全てが無くなるわけはないので、わたし達観測者から見て、「消えた」ように見えるだけのような気がする。
「消えた」ように見える量子は、わたし達には観測することも知覚することもできない、いわゆる別次元ともいえる領域に、ただ単に「移った」だけのことかもしれない。

元々、人間の五感など、世界のごくわずかの領域しか認識できないようにできている。
見える世界も、可視領域という言葉が示すように、限られた光の波長だけである。
聴覚も、ある特定の周波数のものしか聞くことが出来ない。

この空間的物理的世界ですら、認知することができる世界は限られているといえるのである。
そこに別次元の世界が同時に存在していても、当然不思議ではなく、わたし達にはどうあがいても到底認知することはできない、というだけなのかもしれない。

量子が「消え」「生まれる」のは、その別次元との移行の瞬間を捉えた事象なのかもしれない。

その別次元とは、いわゆる「あの世」ではないだろうか?
すると、わたし達も死んだら、「あの世」に移行して、この世からは観測できなくなる、というだけかもしれない。
その場合、死んでも何も終わらない。
死んでも、「あの世」での時間が待っているのである。

この世では、わたし達の思考や感情の発するエネルギーにより、似たエネルギー(事象)同士が集まってくる(引き寄せられてくる)可能性を前回お話した。
それは、因果応報として、この世からあの世へも引き継がれるのではないだろうか?
この世での過ごし方(考え方)が、あの世での過ごし方に大きな影響を及ぼすことを考えることは、そんなに難しくはない。
逆にいえば、生まれてきたわたし達は、あの世での「エネルギー体」の過ごし方により、ここでも因果応報の結果として、ある必要性を持って、この世では「運命」とよばれる事象=結果を伴って、この世に出現していると考えることも、そう難しくはない。

以上を考えると、日々の生き方こそ、もっともっと大事に考えて過ごすべきであると、尚更思う今日この頃なのである。
そして量子力学が、あの世の存在を証明する日も、そう遠くはないと、感じたりもする。

結局のところ、この世とあの世は、絶対矛盾的自己同一なのであり、「見えないものでもあるんだよ」の世界なのである。

現実を作るわたし

これからの近未来、様々な憶測がなされている。
ソフトランディングが失敗した場合、世界経済のさらなる悪化、食料飢饉、自然災害、戦争・・・などが用意されている。
地球の人口はシナリオに沿って、10億まで減らされるかもしれない。

こうした背筋も凍る時代に、どうやって生きていくか?

まず、「自分」がこの用意された現実に、まるで罠にはまっているかのように、ただ生きているのではないということを、しっかりと認識することである。
ニュースで報道を見ていると、いかにも世界は自分ではどうにもならない流れの中にあるように思えてくる。
自分は決められた仕事をこなし、給料を得て清貧に生きている。
悪いことは何もしていない。
でも、世界は勝手に不況や戦争の予感を漂わせてくる。
自分はその波から逃れられない・・・。

そうではないのだ。

現実の中に生きているのではなく、本当は自分が現実を作っているのである。
自分次第で現実はどうにでもなるのである。

量子は硬く見える金属においても、常にその配置を変え、動いている。
もちろん、量子自体も中身がすっからかんであることは、以前にも書いた。
それに量子は、ヒトの感情や思考の力で、動くこともわかっている。
まさに、思考や感情は世界を作るのである。

思いの力、それはとても大事なことだ。
思いは、未来を「引き寄せ」る。
自分を現実の中の奴隷と考えるか、現実こそ自らの奴隷と考えるかは、あなた次第なのである。

思いの力が量子を動かすのであれば、どうせなら気持ちの良いプラスのエネルギーを発散した方がいいに決まっている。
物質はE=mc2 であり、基本はエネルギーである。
エネルギーは似たもの同士が引き寄せられて、集まってくる。
「類は友を呼ぶ」である。

プラス思考を常に実践しているヒトは、プラスのヒトや事象が自分に引き寄せられ集まってくる。
一方、無意識でもマイナスの思考感情を放出しているヒトは、必ず同じような暗い出来事が自分に降りかかってくる。
これは超能力の話ではなく、すべての人類に当てはまることなのである。
そして大事なことは、思いの力は、それを理解しているヒトとしていないヒトでは、人生が雲泥の差となってくることである。

ただ生きているのではない。
生きていることは世界を作っていくことなのである。

これからの危機的な厳しい時代に、時代の「津波」に飲まれて藻くずと消えるか、それとも自らの「思いの力」で新世界を切り開くか、そろそろ人類は二極化のピリオドに入ろうとしている。

現在におけるマスコミを中心としたあらゆる悲観的、感情的洗脳は、わたし達一般人にそのことを気づいて欲しくない一部の連中の仕業でもある。

不況や飢饉をピンチと捉えるかチャンスと捉えるか、それも個人の自由なのだから・・・。

開花

270.jpg
ウマノスズクサは、種によって、春先に開花するものと、夏から秋に開花するものと分かれます。

271.jpg
宮古アリマの花が左から咲いてきました。残り二つはまだ口をつぐんでいます。しかしいつ見ても、これは心臓の弁に見えるなあ。

カレンダー
03 | 2009/04 | 05
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
最新記事
カテゴリ
最新コメント
月別アーカイブ
プロフィール

ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

リンク
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
FC2カウンター
FC2ブログランキング
↓ランキング参加中。クリック応援よろしくお願いいたします。

FC2Blog Ranking

ブロとも一覧
世界のなかのみんな
検索フォーム
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。