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キャンベリーモクレン

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キャンベリーモクレン(Magnolia campbellii)の種子を手に入れた。
洗濯ばさみは大きさのガイドである。

モクレンという名の通り、モクレン科(モクレン属)の植物であるが、これに魅かれていた理由は別にある。

五十嵐邁(いがらし・すぐる)という、蝶好きの者なら知らぬ者はいない有名な方がいる。彼は東大を出た後、超一流企業で重役を勤める傍ら、世界の蝶の研究を現地まで直接赴いて行った。その研究成果は素晴らしいものであり、世界初の発見もたくさんあり、世界の昆虫学者においてさえ、彼の名を知らない人はいないだろう。大変な情熱を持った方であった。(2008年4月6日に故人となる)
それに図鑑の蝶の絵も写真のように精密に描き、また小説家としても有名で、本を何冊も書かれている多才な人であった。

五十嵐さんは、世界でまだその生態が不明であった、「神秘の蝶」=テングアゲハをヒマラヤ山脈の麓のインド・ダージリンに長期間の泊り込みをして、ついにその幼虫の食樹から生態をすべて網羅記録したことで特に有名である。

それは絶望と希望に包まれたドラマティックな毎日であり、わたしはその関係書籍を何冊もワクワクして読んだことがある。もちろん五十嵐さんの書いた素敵な蝶の大図鑑も何冊も持っている。現在は絶版なので、神保町の古本屋で買ったものだ。

その神秘的な蝶、テングアゲハはこの上なく美しい輝きを放つ。
霧でかすむヒマラヤの山の中を舞い、紫色の輝く卵をそのキャンベリーモクレンの葉に産むのである。
キャンべりーモクレンは、ヒマラヤの山の中で、一際目だって美しい花を咲かせる木でもあるそうだ。
美しい蝶は、やはり美しい植物が似合うのかもしれない。
自然の神様はうまく作ったものだ。

キャンべりーモクレンの発芽は、かなり難しいようだが、芽が出てくれると嬉しい。
もし芽が出たら、テングアゲハを追った五十嵐さんの幻影を見ながら、大切に育てたい。
そしてわたしもキャンベリーモクレンに夢を見ることが出来るだろう。


なお、日本のアゲハチョウでモクレン科を食樹にする蝶は、ミカドアゲハである。ミカドアゲハも美しい蝶であり、モクレン科のオガタマノキ属のオガタマノキに産卵をする。ちなみにミカドアゲハは関東では見られない。
沖縄、九州、四国、紀伊半島などの南の暖地のみに生息する、個体数も少ないこれまた珍しい蝶である。

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時間のなかのわたし

そもそもわたし達の活動する「現在」とは、観測者によって観測されることによって決められた座標である。
わたしは「他者」を観測し、「他者」によってわたしは観測される。
互いに観測され、観測することで粒子的存在として成り立っている世界が、この世界である。

では、もしも観測者がいなければどうなるか?

わたしは観測されることがない以上、自らの座標を持つことはできず、単なる波動的な確率的存在として、複素数的時間ともいえる、西田師曰くの「永遠の今」のまっただ中に、雲のように漂っているはずである。

「永遠の今」には過去も未来もない。
時間を超越した存在的時間である。

わたし達は観測されることによってのみ、「永遠の今」における確率的存在から、いわば「永遠の現在」を旅する実数的世界の旅人となるのである。

観測されるということは、つまり、過去と未来を一瞬のうちに現在に手繰り寄せることでもある。
観測された瞬間に、わたし達には過去と未来が現在において集約されているのである。

生きていることは死んでいることでもあるように、現在を旅することは、すでに過去と未来を往来していることでもあるのである。

わたしの存在は、現在を規定する。
同時に、わたしの存在は、現在に規定されないことでもあるのである。

逆説もまた真なり。
これぞ絶対矛盾的自己同一の世界なのである。

わたし達は現在しか知らない存在ではない。
時間旅行などしなくても、現在を知る以上、すでに過去も未来も自らに内包して知っているのである。


幸せの探し方

幸せはわが心のうちにあり、とは以前にも記した。

しかし生き物として生き続けなければならない原動力が、「競争」である以上、「幸せ」と「生きる」ことは相入れることのない絶対矛盾であると考える。

生きるためには、「相手」に勝たねばならない。
弱者は殺され、強者が生き残る。

そのようにして世界は形成されてきた。
美しい自然もそうして形成されてきた。

「競争」は、人間界においては、妬み、恨み、憎しみへと変化する。
国家的な集団的憎しみは、戦争を産む。

とても「幸せ」を感じる状況になりそうもない。

では、ヒトは永遠に「幸せ」を得ることができないのだろうか?
答えはyesでもあり、noでもある。

それがなぜであるか、もうお分かりになると思う。

生きることに視点を移せば、yesである。
死ぬことに視点を移せば、noである。

ヒトは(もちろん全ての宇宙は)、生と死の重ね合わせの存在である。
生を粒子的存在(実数的)、死を波動的存在(虚数的)とでも云おうか。

生だけを考えても不自然、死だけ考えても不自然。

つまり、「競争しながら競争せず」の精神が、万物本来の存在の姿であるといえる。

競争=妬み・憎しみ、のみではいけない。
幸せ=万物の平和・死、を考えることも、同様に大事なことなのである。

幸せは努力して得るものではなく、競争の必然と同じく幸せの必然として、ヒト(=万物)の本質そのものでもあるのである。

別の観点から云えば、競争と幸せは絶対矛盾的自己同一であるから、競争は幸せであり、幸せは競争でもある。

競争しない者に幸せはなく、また幸せがある者には必ず競争があるのである。
競争と幸せは、表裏一体となってバランスを保っており、それを現在において行うものが「わたし」である。

つまり、「わたし」が「わたし」である以上、競争は必然であり、幸せも必然的に存在しているのである。

ここにおいて、
 「わたし」=「競争」=「幸せ」
の等式が成り立つのである。

幸せの場所がわかったら、あとはそのバランスの調整に、精神的理解を注ぐのみなのである。

わたしはこうして生きていて死んでいるのである。
永遠に過ぎることのない、「現在」において・・・。


メトロポリスの富士山

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言葉はいらない。

哀愁を感じませんか?

永遠のわたし

量子は、測定者に「測定」されることで、初めて自らの座標を現す。
測定されない間は、あくまで「確率の波」として雲のように宇宙に存在している。

量子の存在は、あくまで確率で表され、シュレーディンガー方程式では、それは波動関数として複素数で示される。

Φ=x+i Y

である。

わたし達の「生」と「死」もまた同様である。

Φ(わたし)= x(生) + i Y(死)

とでも書いてみよう。

わたしは常に波動として、この宇宙に確率的に存在しているが、たまたま人間という「観測者」によって観測されたために、実数Xとして、その「生」の部分だけが形となり、動いて見えている存在なのである。

人間という観測者には、虚数iは観測することができない。
なので、その実数存在が観測により明らかである以上、確率の雲となっている「死」=Yについては当然観測することができず、それは目には見えない存在となる。

「生」や「死」というのは、時に劇的な演出を伴って、突然やってくるものであるが、現実には、その「生」や「死」は常に混ざり合って存在しているのである。

観測される“現象”としての「生死」は突然で劇的であるが、観測されない世界における“状態”としての「生死」は、常に確率的な矛盾的同一として存在しているのである。

見えないものでもあるんだよ。

みすずさんの世界である。

観測者側(=実数の世界、=「生」の世界)からだけの観点から、世界を考えていたのでは、その本質を見失う。


一方、虚数の世界(=「死」の世界)から世界を観測したら、どのように見えるのであろうか?

同じように、虚数の世界から実数の姿は見えないであろうから、また全く別の世界が広がって見えることであろう。

あなたの姿もただの幾何学模様のようにしか見えないかもしれない。


とにかくわたし達は、生きているわけであるが、同時に死んでいるのでもあるのである。
現実に見る「生死」は、実数存在として観測者であるわたし達の目に、生まれてきたとか今死んだとか、明らかにわかるだけであり、本当の複素数としての「生死」は、ある瞬間だけを捉えた事象ではなく、常に自身の中にも他者の中にも矛盾的事象の状態として、同一的に存在し続けているものなのである。

「生」が「死」を恐れるのは、互いに矛盾だからであり、逆に「死」は「生」を恐れているはずである。
でもそれでいいのである。
恐れるのは矛盾的同一世界における本質でもある。

しかし一方的に恐れすぎてもよろしくない。
知能を持った人間は、その知能の発達方向がどうも実数X側だけであったようだ。
絶対矛盾であるが、わが存在の相棒でもある虚数Yについても、理解を示すことが大事であると考える。

自分は生きているだけの存在ではない。
生きていると観測されているだけであり、事象の本質は死も混ざり合って存在しているのである。

誰かが死んだというのは、死が瞬間的に周囲の実数存在者に観測されたにすぎない。
それは実数存在が瞬間的に消失したから、必然的に明らかになった虚数的世界であり、ご遺体が焼かれてしまえばその実数的観測対象もなくなってしまうので、再び観測不可能となり「消えて」しまうのである。

仏壇に祭られた、「死んだ」人は、虚数的観測者からは、しっかりと「死んで」いることが観測され続けていることであろう。

「生死」はいっときの観測現象であり、わたし達は「時間」を超え、「生死」を超えて存在し続ける永遠の存在なのである。
そこに絶対無が存在する限り、たとえ宇宙が消滅しても、世界は永遠であり、わたしも永遠なのである。

そしてわたしは世界であり、世界はわたしであり続けるのである。

死んだらすべてが終わりになるわけでも、ラクになるわけでもない。

永遠における「現在」を旅している意味を、もっと深く洞察する必要がある。

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プロフィール

ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

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