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変わるとは・・・

きょうも虫単位、植物単位、微生物単位で考えれば、何億兆もの命が死に、何億兆もの命がまた、わたしたちと時間を共有する仲間となった。

それでも地球は変わらない。
生きているわたしも何も変わらない。
腹が空けば飯を食べ、眠くなれば眠り、考えることがあれば考える。

いつかは自分も死ぬのだ。
そして自分が死んでも何も変わらない。
いっときの葬式が営まれ、少数の弔問客が線香をあげ、あいつもついに死んだか、とつぶやかれ、49日も終われば、少し肩の荷が下りたと親族に云われる。
1年も経てば、友人からも忘れられ、なおさら世界との変化は消えて行く。
死んでも何も変わらない。

人類の暴挙によって地球上のすべての命が滅んでも、地球は何も変わらない。
太陽系も宇宙も何も変わらない。
どこかの宇宙人が、ついにあそこの生命も滅びたかとつぶやき、1宇宙年も経てば、宇宙人連合からも忘れられる。
地球は相変わらず365日で太陽の周りを公転し、月は地球の周りを公転する。
三日月も満月も、曇りの日も雨の日も、晴れ渡る秋晴れも、何も変わらない。

それでも生きているものは生きている。
死すべきときに死んでゆく。
生けるものは何を思う。

生きても死んでも何も変わらない。
ならば、どういう思いで生きていく?
科学も宗教も文明も、滅亡した地球の暁には何も意味を成さない。

生きるものには、生きるプログラムが「欲」として組まれている。
脳細胞が作る「自分」には、その欲がある。
宇宙の大規模構造=グレートウォールも脳細胞と似た形をしている。
宇宙にも生きる「欲」があるはずだ。

そしてそのように作った「何か」が存在する。
だが、その存在をわたしたちは決して理解できない。
考えようとすることはできても、考えると無力感が漂う。
行き過ぎると「抑鬱」となり自殺しかねない。

その「ある存在」に対しては、深く考えるなということか?

とりあえず、小さな欲の不連続の連続で、生きているわたし達なのである。
それを「生かされている」という人もいるが、単に生きていることには変わりない。

生きていることが、何か世界を変えるのかと考えた時期もあったが、どうもそうではない感じがする。
あくまで、有と無の絶対矛盾的自己同一の中で、無に対する対照として、加速度を持って存在している世界に過ぎないように思う。
有の世界にいれば、毎日を「変化」と感じるが、それは加速度の幻想であって、宇宙的「有」の規模で考えれば、無に対して何も変わるものはない。

わたし達は生きていく。
わたし達は死んでいく。
小さな「欲」を持つ間のみ、生きていることが許される。
何も変える必要はなく、何も変わる必要もない。
単に「欲」に忠実に、行動すればよいのだ。

「欲」の質と程度で、善と悪が区別される。
自分としては、善といわれる欲を持ちたいが、悪といわれる欲を持つ者が、本当に悪いことなのか、だんだんわからなくなってきている。

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ある夜に

こうして考える「自分」は、頭の中に存在していると感じる。
足の裏や手の指先でもない。
おなかでも心臓でもない。

「感情」や「思考」、そしてそれらを創造する「自分」という意識は、やはり頭=脳の為せる技なのか。

手足がなくても「自分」はいる。
しかし脳がなければ「自分」はいない。

当たり前のようで、考えれば不思議なこと。


生きている。
今、こうして生きている。
生きているのは死なないから。
死なないのは生きているから。

もし「自分」という脳のプログラムが、自虐行為に走ったら、皆、集団自殺でもするのだろうか。
もし「自分」という脳のプログラムに、「優越意識」や「支配欲」というものがなければ、世界は平和になるのだろうか。

脳に感じる「自分」の不思議。

こんなに世界を隈なく緻密に調べ上げる能力がヒトには備わっているに、「自分」を調べるのは全く苦手だ。

脳が創る「自分」というのは、例えば時間そのものが五感で感じられないように、生死に関しては、感じ取れないようにできているのであろうか。

生きていることを意識しすぎてもおかしくなる。
死ぬことを意識しすぎてもやはりおかしくなる。

花のように生きている。
蕾のないときに咲くことを考えず、咲く前に散ることを考えない。

でも、ヒトは近い将来、意識しすぎずに「生死」について深い洞察を加えなければならないときがくるだろう。
その結果、天への扉が開くのか、この世が終焉してしまうのか、それは誰にもわからない。

わたしの予感では、そのような究極の「思考」の完成は、ブラックホールのような重量感を持ち、自らの重力に耐えかねてつぶれていき、すべてを飲み込みこの世すら終焉させてしまうような気がしている。

花のように

花のように
花は散ることを考えて咲くのではない
散るときは自然に散っていく

花のように
花は突然に咲くのではない
つぼみとなり、つぼみをつける木があり、木が生える大地があり、水と空気がある。
そして地球があり、宇宙がある。
花が咲くのは一瞬だけど、長い長い道程がある。

花のように
花は散ったらなくなってしまう
花が咲く前も、花はない
咲く前も散ってからも、そこには1本の木がある
木は種から生まれ、種は木から作られる
時間が流れる限り続く、回天輪廻

人の生も花のようだ
生まれる前も死んでからも、「わたし」はここにはいない
いないけれど、確かに「木」があり、宇宙がある。
そこに時間が流れる限り。

なぜ生まれ、なぜ死ぬのか。
花が散ることを考えて咲くのでないならば、死ぬことばかり考えて生きていくのは止めにしよう。

花が咲く1本の「木」が切られても、仲間の木がたくさんある。
わたしはあなたで、あなたはわたし。
花は風と遊び、蝶や鳥と戯れる。

「木」が全部世界から消えてしまったら、花が咲く理由もわかるだろう。
でもそのときは、「理由」を知ることのできる存在自体が存在しないのだ。

素粒子が常に対称性に存在するように、この世は「有」と反有=「無」でできている。
有がある限り、生きるのであり死ぬのである。
無を経験すれことができれば、よくわかるだろう。
しかし、決して有の存在には無は理解できないのだ。

「あなたは何故生まれてきたの?」
こう質問されたら、こう答えるのもあながち間違いではなかろう。
「それは、そう質問するあなかが居るからよ」

「自分は何故死ぬの?」
「それはそう考える自分がいるからさ」

生死=有=加速度なのである。

花のように
花のように

散るときまで生きていこう。

花のように
花のように
花のように

わたしでありあなたである万物たちよ、今の時間をどうぞ一緒によろしくね。


バベルの塔

「サウジも高さ1キロ超の高層ビル=世界一の争い激化-中東」
10月15日14時13分配信 時事通信

 米CNNテレビ(電子版)などによると、サウジアラビアのワリード・ビンタラール王子は15日までに、紅海沿岸のジッダに地上1000メートルを超す世界一の超高層ビルを建設する計画を明らかにした。
 総額267億ドル(約2兆7000億円)を投じるプロジェクト「キングダム・シティー」の一環。ビルにはオフィスや高所得者向け住居、5つ星のホテルが入るという。
 中東ではアラブ首長国連邦(UAE)の不動産開発会社が5日、地上1000メートルに及ぶ高層ビルの建設計画を発表。クウェートでも1000メートルを超すビルを建てる計画があり、超高層ビルの世界一を目指す争いが激化しそうだ。


 現代における、まさにバベルの塔である。
カネに余った国(=オイルマネー)は、自らの権威権勢を示そうと、世界一を目指す。バベルの塔がどうなったかは、旧約聖書に書いてある。
 やはり歴史は繰り返すのか。
 集合離散がこの世の常か・・・

西果ての夢 ~与那国へII

与那国には、夢を追って、移住した人々がいた。
カネと地位の都会の価値観に捉われず、人と自分を比較しない、純粋に今の自分を「生きる」ことを楽しんでいる、素晴らしい人達がたくさんいた。
島を良くしよう、守ろうという気概のある人達がいる限り、いつまでも与那国は与那国であり続けるはずだ。

202.jpg

「ヨナグニウマ」 とても優しくておとなしいです。
NPO法人さまで、乗らしてもらいました。
馬で海にも入りました。
素敵でした。

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ウシもたくさんいます。こんにちは、と声をかけると、なんとなく答えてくれるような気がしました。与那国では道を普通にウマやウシが歩いていますが、近づくとそっとどいてくれます。人とすべての生き物が優しく共存していました。

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動物同士も共存共栄。ウシの背中で羽を休めるシラサギ。

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シラサギのコロニー。関東ではもうほとんど見ることが出来ない光景です。わがブログの「さぎ山の夢」を参照。

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ヨナグニサンを模した道案内。実物には時期が悪かったそうで、巡りあえませんでした。保護策が功を奏したそうで、近年はだいぶ増えてくれたようです。

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与那国のジャコウとウマノスズクサ(アリマウマノスズサクサ・琉球亜種)。与那国のスズはほとんど見られませんでした。もしかしてヨナグニサンよりも数が減っているかもしれません。かなり心配です。早急な調査と食草の保護が望まれます。

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オキナワカラスアゲハはよく見かけました。




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プロフィール

ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

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