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時空の果てに

ニュートンは信じていた。
わたし達が住む世界は、絶対的な空間と絶対的な時間の中にあると。

しかし、アインシュタインは自身の相対性理論によって、そうではないことを証明してしまった。
時間や空間は、観測者の立つ慣性系によって異なってくるのである。
もし光速で運動する物体があれば、それは観測者から見て、長さはぺしゃんこのゼロとなり、その進む時間は限りなく遅くなり時が止まる。
一般相対性理論では、重力の働きまで統一し、質量のある物体は空間を歪めることを証明した。
わたし達は、絶対空間や絶対時間の中にいるのではなく、わたし達自身がその質量と運動量を持つことによって、時間や空間を変えているのである。

ところで、物質を構成しているミクロの世界では、量子は光速で運動をしている。
すると、量子は自身にとって、その進行方向の空間がぺしゃんこにつぶれ去り、また周囲の時間は止まっているはずだ。
つまり、量子にとって、時間と空間は無いに等しいとも考えられる。

量子はわたし達の体をはじめ、この世のあらゆる存在を構成している。
限りなくミクロにまで分解して考えれば、わたし達自身は時空とは無関係な存在なのである。
それがマクロの世界になったとたん、時間や空間の概念が前面に出てくる。

昔、カントが云っていた。
時間や空間は、わたし達人間の脳が作り出した副次的産物であり、なぜならそうした方がわたし達にとって生活しやすいからである、と。
「純粋理性批判」という難解な名著である。

相対性理論と量子論という現代物理学の最前線にある学問が、カントの意図したところを、科学的に証明しようとしている。

では、わたし達にとって時間や空間は、そもそも考える意味が無いのか?
そこら辺が大変難しい。
生命はなぜ自分のことを「生きていたい」と思うのか、なぜ他の生命のことを「生きていて欲しい」と願うのか?
時空の概念を越えた「何か」を考える必要が出てきたかもしれない。

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フクロウの家

深夜、夢の中で呼ばれたような気がして、そーっと目を開けた。

「ホーホ、ホーホ」

あまり聞いた事のないイントネーションだ。
絶対音感のドレミで言えば、ミード↓ だ。

まだ夢見心地の頭には、ヒトの声に聞こえる。
やさしい、ソフトな声。

1階にだれかいるのか?
声の主はすぐそこにいるように感じる。
そのとき、主が別の言葉をしゃべった。

「ボロキテ ホーコー」

うん?
ぼろ着て奉公?

ここでぱっちり目が開いた。
あれあれ、フクロウさんではないですか!!
どうしてまた、こんな家にお越しで!?

おそらく軒先か屋根に止まって、鳴いていたのでしょう。

わたしは、まさか自分の家にフクロウが来たなんて信じられなくて、その夜は嬉しくて眠れませんでした。
田舎とはいえ、周りには大きな森もない住宅街です。
まだいたのですねぇ、ここにもフクロウさんが


PS:フクロウの鳴き声の聞きなしは、「ボロ着て奉公」「五郎助奉公」「デレスケホーホー」などとして知られる。一度聞いたら忘れない独特の声。(注:著者は元日本野鳥の会会員です)


Ψとhと病

量子力学によれば、量子の存在は確率の波=波動関数(Ψ)で表される。
観測者=人間によって観測されることにより、はじめて確率は確立となり、その存在がある1点の座標に見つけられる。
原子の周りを回る電子は、学校で習ったような太陽系の惑星のような軌道を描くのではなく、実際は確率の波=電子の雲として存在している。
一方、観測においては、量子の位置と運動量の双方を正確に測定することは出来ず、プランク定数(h)という測定限界=不確定性原理が存在している。

量子力学のパラドックス、「シュレーディンガーの猫」を思い出してみよう。
その奇妙な猫は、50%の確率で、生きている状態と死んでいる状態とが半分ずつ「重ね合わせ」の状態となって存在している。
しかし観測された時の猫は、常に生きているか死んでいるかのどちらかである。
猫は、観測者によって、はじめて生きているか死んでいるかが決まるのである。


癌は病気である。
しかし発見されるまでは、本人も周囲も健康だと思っている。
検査=観測により、その存在が発見されるとはじめて癌であることが全員に認識される。
つまり、観測以前=見つかる以前には、その人は癌である確率と健康である確率が、波動関数Ψを以って「重ね合わせ」で存在していたのである。

すべての病気は、健康と重なり合っている。
病気は観測されてはじめて、病気の「猫」となるのである。

逆に考えると、観測されなければ、その人は絶対に病気にはならないのである。
そしてまた、病気であることを観測=見つけると、必ずその不確定性原理によって、もう一つの「本質」を見失うこととなる。
座標と運動量の観測は反比例の関係にあるのだ。
座標を正確に求めようとすればするほど、運動量はより不確実になっていく。
座標を決めることが病気の発見ならば、運動量は何に当たるのだろうか?
I think ・・・運動量は、魂の活動ではないだろうか。

病気を必要以上に見つけようとすることは、魂の活動を阻害することになる。
この世の本質が不確定であるならば、人間もまた不確定であるべきなのだ。
病気は見つけなければ病気ではない。
本人が病気だと思えば病気になる。
病気だか健康だかよくわからないその不確実な混沌とした確率的な存在こそが、わたしたち肉体としての本来の存在なのである。
「座標」を正確に求めることだけを追求した医学や科学は、その一方で本質的な大切な「何か」をどんどん失っているのである。

皮肉にも発達した科学は、その量子論により、自らの限界(=h)を教えてくれてもいるのである。

きょうわたしは、仕方なくある人の「座標」を決めてしまった。
そこで、その人がなるべく「運動量」だけは見失わないようにと、「不確定」な励ましをしておいた。

名医はhを無視し、Ψを確定することを身上とする。
一方、ヤブはhを大事にし、Ψを適当に加減して病気を不確実にする。
どちらを好むかは分かれるだろうが、わたしの道は決まっている。
ほとんど理解されない、カネにならない道である。


シュレ氏と西田師とわたし

「エルヴィン・シュレーディンガー」 1887年8月12日 生 KIN 211(青い猿・赤い月)

188.jpg

「西田幾多郎」  1870年6月17日 生 KIN 190(白い犬・青い夜)

189.jpg

「わたし」 KIN 191(青い猿・青い夜)


この3人、実は軒を並べる青の隣人同士だった。
わたしが多大なる影響を受けた偉大な2人の先達とは、そうなるべくして知り合ったのである。
これを宇宙のシンクロニティと云わずしてなんと云おうか?
KINは260通りもあるのである。

実際、哲学の西田師は勿論、量子力学のシュレ氏も、自身の理論が後にその不可思議で興味深いシンクロニティの事実を科学で証明することとなった。

余談だが、西田師とシュレ氏のお顔が、どことなく似ているのがおかしい ^v^:

190.jpg

KINについては、"メムノシスJr.先生著「古代マヤ暦の暗号」ぶんか社" より引用させて頂きました。

世界方程式

ミクロの世界を明らかにした量子力学は、目で見えるマクロの世界とは180度異なった、常識という観念では考えられない世界を明らかにしてくれた。
量子力学はれっきとした物理学、科学であるが、それは結果として宗教や哲学がかつて担ってきた領域さえも、統合しようとしている。
あの絶対矛盾的自己同一の原理さえも、量子力学は科学で証明しつつある。
超能力(テレパシー、テレポーテーション・・・)、奇跡とよばれる現象、そして死後の世界とは?、といったことももう少しで完全に解明されそうだ。

量子力学の結論から言うと、これは至極当然のことなのだ。
人間が哲学や宗教で、「世界はこうあるべきではないか」と考えてきたように、そのようにマクロの世界は創られると云っても過言ではないからである。
ヒトの意思、観測者の意思によって世界の形は変わる。
これは量子論を少しでも勉強すれば、目からウロコが落ちる感動とともに、万人が理解できる。


マクロの世界を司る、古典力学におけるニュートンの運動方程式は、

F=ma

であった。
Fは運動ベクトル、mは質量、aは加速度である。

一方、量子力学の基本となった、1926年に発表されたシュレーディンガー方程式はどうであろうか。

187.jpg


量子力学では、電子などの粒子は、「波」の性質と「粒子」としての性質の両方を持ち共存していることが証明されている。
ψは、位置x,時間tにおける粒子の運動に伴う状態の共存の程度を表わす、波動関数である。
波動関数はつまり確率である。

電子はヒトという観測者が観測することによって、初めて空間的座標に粒子として姿を現す。
観測されない限りは、常にその存在は確率でしか示されることができない。
つまり観測すれば1つの粒子だが、観測されなければ空間に一定の確率をもって「同時」に存在しているのである。(=「シュレーディンガーの猫」)

V(x)は、ニュートン力学ではFに相当する、粒子に働く力のポテンシャルを示す。

すると重大な事実を目にすることができる。
まず、虚数単位iが入っているではないか!
虚数単位は2乗すると-1になる数であり、この世の現実では考えることが出来ない。
以前、わたしはヒトや生命の魂といった存在をこの虚数に喩えて考えてみたりした。

シュレーディンガー方程式の意味するところは、数式の係数を除いて簡単に考えると次のようにいえるはずだ。

「粒子に働く波動関数としての力のポテンシャルは、同じく波動関数における位置の微分と時間の微分との複素数で成り立つ。」

微分とは、ごくわずかな変化という意味である。
式の意味はそんなに難しいものではない。

量子に作用する力というのは、虚数という目で見えない世界を経由しているのが理解できる。
そして実際にわたしたちは、量子力学を活用して現代社会の便利なテクノロジーを享受しているのである。


波動関数は確率で表わされる。
波動関数は虚数を含む複素数であるが、ボルンの確率解釈によれば、「粒子の存在確率の確率密度は、波動関数の絶対値の2乗に等しい」ということになっている。
つまり、波動関数そのものは複素数であるが、存在確率は常に正または0の値をとることになり、普通に理解できる世界である。

以上を考えると、わたしたちの目で直接見ることの出来ないミクロの世界は、波動関数として確率として存在している。
それは複素数で表わされ、モノとしてだけでは考えることが出来ない世界ともなっている。
しかし、ひとたび「わたし」が対象を観測する(=見る)ことにより、波動関数は実数の存在確率として表記されることとなる。
それがマクロの世界、わたしたちが理解している通常のモノの世界である。

わたしたちが対象を存在として感じるのは、それをモノ=粒子として認識するからである。
しかしすべての粒子は量子からできており、その量子は粒子であると同時に波動でもある。
もしも「わたし」や「あなた」がいなければ、世界は波動関数=複素数の世界である。
本当は目に見えない複素数の世界が無限に広がっており、そこに登場した「わたし」という変圧器によって複素数が実数の世界に投影され、目に見える世界となっているのである。


まさにわたしがいるのはあなたがいるから。
わたしはあなたに、あなたはわたしに映し映される存在なのだ。

― 見えぬものでもあるんだよ、
  見えぬけれどもあるんだよ。


西田幾多郎も金子みすずも、そして量子力学も、世界の真理に向かって互いにその距離を縮め、収束しつつある。

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プロフィール

ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

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