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自殺考 6

前回は、死による魂の転生について述べた。

しかし、前回までの話には重大な観念が欠落している。

そう、人間はただの生命ではないのである。

生命に「奇跡」が働いて、それはつまり悪魔のそそのかしで「善悪を知る木の実」を食べたことにより、知的生命となり、悪魔的世界を所持するに至ったのである。



魂がそれ単独で活動できるのは、悪魔がいない場合である。

人間の場合は、魂の活動を阻害する、悪魔=悪霊の存在を考えなくてはならない。

いくら「できた人」に見える人間でも、悪魔は多少なりとも存在している。

しかしもちろんこの場合も、見た目には、神の側面が描出されているか悪魔の側面が描出しているかは、「シュレーディンガーの猫」となっている。

この場合の「猫」の存在確率は、悪魔の入り込んでいる確率を表す。

とにかく、人間の場合、魂の活動は単純な三位一体では説明できない。



魂を太陽とすれば、悪霊は「雲」である。

雲は太陽を隠す。

しかし太陽自身がなくなってしまうわけではない。

あくまで太陽は存在しているのだが、現実に輝きを見せることができなくなってしまう。



すべて雲で覆われてしまったら、それは見かけ上、「魂の死」である。

悪霊に魂を吸い取られ、完全に悪魔の支配下に下ったことになる。

しかし通常の場合、つまりほとんどの人間においては、そこまで雲に覆われてしまうことは少ないはずで、大体は太陽の一部を雲が覆っている程度の状況であろう。



「雲」はどんなところにできやすいか。

湿っぽいところ、気圧の低いところ・・・。

それについては、次回に述べよう。

自殺という行為を考える上で、それはとても大事なところだ。

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では、この善悪を知った人間における、「わたし」内部のこれら働きの関係を見てみよう。

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肉体は苦難を経験することで、魂の安楽を得る。

悪霊にとりつかれた人間は、肉体が楽を覚え、楽を追求しようとする。

しかし結局は、悪霊は「苦難」しか返してこない。

それが悪霊の本性である。



善なる魂を信じ、祈ることで、魂は意識を覚醒させるが、悪霊はその盲信と洗脳により、意識を堕落させ悪霊の呪縛の下に支配する。



次に、大きな「わたし」の三位一体のつながりの関係で、神と悪魔を見てみよう。

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悪魔に支配された「わたし」は、モナドの「わたし」に対しても、悪意や嘲笑を以ってしてしか接することができないようになる。

しかし性交だけは肉体間のつながりであるので、悪魔に支配されていようが行うことが可能である。

性交は必ずしも愛を確かめ合う手段ではない。

悪魔の洗礼となることもあるのだ。



では最後に、これら善悪の2面性を簡単に図にしてみよう。

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「わたし」の肉体と意識は、常にこうして、神(魂)と悪魔(悪霊)にシナプスを放ち、程度の差こそあれ、信号を送り合っているのである。




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自殺考 5

さて、「わたし」を巡る”つながり”の原図を理解したところで、生と死を考えてみよう。



基本的に、「生」とは肉体と意識が活動している状態を指す。

「死」とはその逆で、肉体、意識ともに滅した状態をいう。

実は、肉体と意識の死以外にも、「魂の死」といえる状況もあるのだが、それについては次回以降に述べたい。



この生と死をまとめると次のようになる。

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生において、肉体は時間的現在において空間的に行為し、意識は時間を自由に活動しながら行為的直観を持って世界を創造していくのである。そして魂は霊的な「反省」を通して、肉体と意識に働きかけていく。



一方、肉体が死すれば意識も同時に死を迎える。

魂は肉体と意識の死により、「わたし」から離れ、「転生」の旅に出ることになる。

ただしこの死にも例外があった。

イエスは、礫刑後3日経って復活した。

これには、自殺における重要なテーマが隠されているので、後に述べたい。

また意識も復活することがある。

生まれ変わりと呼ばれる現象で、ごくまれに前世の記憶と性格が、新しい肉体で復活することがある。

臓器移植においても、移植された肉体が、元の臓器の所有者の意識・性格に取って代わられることがある。



そしてこの生と死も、「シュレーディンガーの猫」として、その創造と消滅の二面性をもちながら、一体となってこの世界に表出しているのである。

魂は転生して新たな生を得るが、肉体と意識はさきの例外を除いて、再び生を得ることはできない。

だから肉体は種として生きることを選択し、意識はさまざまな記録や記憶を通して、不滅性を獲得しようとするのである。

それも巡り行く生と死の定めである。




さて、この死について、三位一体の「わたし」のなかでまとめるとこうなる。

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魂の転生のための条件は、魂と肉体、意識をつなぐ、”つながり”の消失、切断による。

そしてもちろん、転生しうる魂自身が「脱核」し得る体力を持つこと、つまりは健全でなくてはならない。


さらに、わたしを巡る大きな三位一体の関係で見てみよう。

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ここでも、他との”つながり”を断たれたということが、重要な意味を持つ。


わたしとわたしのつながりにおいてはどうか。

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やはり、わたしとわたしを結ぶつながりが切断されることによって、魂は転生していく。

魂同士のつながりが直接切断される理由はないが、わたしの中から「脱核」する力のほうが強いのだろう。

脱核してしまえば、自動的にそのつながりも弱まっていき、最終的には断たれてしまうことになろう。


最後に、モナド的関係の中に死を見てみよう。

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ご覧の通りである。



モナドの死、消滅は、つながりゆくモナドにおける、「梗塞」となる。

しかし、生体内でも死んだ細胞が貪食され、シナプスは修復されていき、補うように新たな細胞が増殖してくるのと同じように、モナド的世界においても、梗塞後のモナドは修復と創生を通して、その活動はエネルギーを落とすことなく維持されていく。

修復できないほどの梗塞が起こる場合も考えられるが、それはモナドの大量死(肉体的にも意識活動においても・・・つまりは大戦争・大災厄による大量死、大いなる思想・哲学の消失など)において、起こりうることでもある。

あまりに大きな梗塞であれば、生体において脳梗塞後に麻痺が残ることもあるように、それは「世界」「神」といった、より大いなる次元でのモナドにも影響を及ぼすことになる。

しかし、ここで考えてきたような、個人の死のみでは、そこまで大きな梗塞を起こすことは稀であろう。




自殺考 4

では、「わたし」と「わたし」のつながりの関係を考えてみよう。

これは以下の図に示した通りである。

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「わたし」と「わたし」は、愛や犠牲、肉体は性交、意識や心においては友情やシンパシーで結ばれている。



では、三位一体の「わたし」内部のつながりはどういう関係になっているのだろうか。

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魂は、祈り信じることによって活性化され、その反作用として意識を覚醒させる(=悟り、アセンション)。

意識は肉体の存在と働きを理解し、よく認識することで、肉体と共存し肉体を有用に生かすことができる。

肉体は自らが活動した経験を、意識に行為的直観や純粋経験として伝える。



これと同じことが、大きな三位一体の関係でもいえるのである。

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「わたし」は「神」を信じて祈ることによって、神の祝福を受ける。

「わたし」は「世界」を認識理解することによって、世界の恵みを受け取ることができる。

そしてモナド的「わたし」同士は、魂の交わり、肉体の交わり、意識の交わりによって、シナプスを介している。



「わたし」は絶対矛盾的自己同一の世界において、三位一体の存在であり、「わたし」単独で独立して存在することはできない。

「わたし」は矛盾的同一の他者との関係において、これら多くの信号を送り合いつつ、連携して存在しうる存在なのである。

映し映され、存在する。

映す相手は他者であり、自分自身である。

世界であり、神であり、相手である「わたし」である。



ここで断っておく。

今までの話は、「知的生命」としての人間を考慮していない。

知的とは、善悪を知ることである。

つまり、悪魔的世界が広がっているのである。

それについては、最後に述べてみたい。



次回から、いよいよ生と死について言及していく。

自殺考3

今度は、「神」の三位一体と、「わたし」を形作る三位一体と、「世界」を形成する三位一体とを、重ね合わせて見てみよう。

「神」は、父なる神 - 神の子イエス - 聖霊による三位一体であり、

「世界」は、絶対無 - 有 - 生命により、

「わたし」は、魂 - 肉体 - 意識による三位一体である。

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さらに大きく考えることができる。

「神」 - 「世界」 - 「わたし」 の関係も、三位一体ではないのか?



それをすべて図示すると、次のような曼荼羅図になる。

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三角形の各要素は、それぞれが対応する。

即ち、父なる神は、「世界」において絶対無であり、「わたし」において魂である。

さらに、「神」は「わたし」においては「魂」であり、「世界」は「わたし」において「肉体」で、「わたし」は「わたし」における「意識」となる。

すると、「わたし」は肉体である「世界」の意識であり、それが「生命」である「わたし」に課せられた役割であるということもできる。



三角形の各要素は、「シュレーディンガーの猫」であり、本質は同じものであり、見え方感じられ方が異なるだけである。

すると本当は、「世界のなかの私」ではなく、「世界である私」が正解なのかもしれない。

ブログのタイトルを変更した方がいいかも知れぬ。



そしてこれらすべての三位一体を内包するのは他でもない、絶対矛盾的自己同一の法則であるのである。



このように、「わたし」は自分という単純な存在のみではなく、三位一体の私自身を含め、世界や神とつながった、複雑な連携の輪の中に生きているのである。

少なくとも、3+3+3+3+1(絶対矛盾的自己同一)=13 のつながりの中に生きている。




次に、忘れてはならないのは、「わたし」は「わたし」ともつながっているということである。

「わたし」は、三位一体、つまりは矛盾的自己同一である「世界」や「神」に自己を映し出されて存在しているが、映し出す存在は、もう一人の「わたし」(=他人、相手)にも存在している。

つまり、「わたし」は「わたし」という存在において、限りなくモナド的である。

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モナドである「わたし」は、三位一体であり矛盾的自己同一であり弁証法的一般者である「世界」につながり、「世界」は同様に「神」につながる。

「わたし」も「世界」も「神」も、条件は異なれど、やはりモナド的である。



さあ、ややこしくなってきた。

「わたし」には、13の基本的つながりの他に、モナドとしての「わたし」と「わたし」、「わたし」と「世界」、「わたし」と「神」のつながりが複雑に絡み合っているのである。



自殺考 2

旧約聖書、ユダヤ教は、ヤハウェを唯一絶対神としている。

一方、新約聖書、キリスト教は、「父なる神」「神の子イエス」「聖霊」を、三位一体の神としている。

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ランダウアー祭壇画(聖三位一体の礼拝)
(Landauer Altar) 1511年    聖霊は白鳩で表される。十字架にはINRIの文字。




この三位一体という考え方には、深いものを感じる。

「わたし」という存在も、この三位一体で説明ができるのである。



「父なる神」が魂、「神の子イエス」は肉体、「聖霊」が意識(心)、に対応できよう。

旧約聖書の創世記では・・・神の姿に似せてヒトを創った・・・わけでもあり、「わたし」という存在が「神」の模型として考えることができるのも、必然の範疇であろう。

引用

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三位一体の考えは、よく水の三相性変化に喩えられる。

水は常温では液体だが、沸騰すると気体になり、氷点下になれば固体となる。

姿を変えるが、すべて同じ水であり、その本質は同じである。



三位一体の神もそうである。

上記の絵画に描かれているのは、どれも同じ三態の神である。



現世のわたし達は、肉眼で肉体しか見ることができない。

しかし条件を変えた世界においては、同じ「わたし」が意識や魂として存在が確認されるはずである。



これは、すでにどこかで考えたことのある世界である。

そう、量子力学における「シュレーディンガーの猫」である。



毒薬が一定の確率で噴射される箱の中の猫の生死は、常に同時に重なり合って存在している。

しかし現実に確認されるのは、生か死の必ずどちらかなのである。

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次に、三位一体の「わたし」がどこから派生してきたのか、紐解いてみよう。



この世は、絶対矛盾的自己同一の法則にのっとって、絶対無から有へ、有から生命が生まれ、生命から知的生命(人類)が誕生した。

その誕生には、これら3回の「奇跡」の力が働いたことは、5/26に述べた。



さて、その「絶対無」に対応する「わたし」が「魂」である。

「有」に対応するのは「肉体」。

「生命(知的生命)」に対応するのが、「意識」である「わたし」である。



胎児期からの肉体の発生において、魚類からの何十億年もの進化の過程が表れる。

同じくわたしという存在も、絶対無からの分化の各過程が、三位一体のわたしとなって表現されているのである。

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ところで、魂は永遠不滅だと考えられている。

ではその魂と三位一体を形成している、肉体と意識(心)はどうであろうか。



実はすべてが、永続性、不滅性を発揮している。



肉体は、自己の個体が死しても、子孫が生き残っていく。

家系などという、せまっ苦しい考えは無用だ。

「わたし」自身に子がいなくても、人類という種においては、絶滅しない限り、世代交代が続いていく。

こうして、ヒトという「肉体」は不滅性をもって維持されていく。



「意識」はどうか。

これは通常、「わたし」がわたしを自覚する、一番アイデンティティーが高いものであろう。

今、「わたし」がいると思っているのも、この「意識」があるおかげである。

「意識」が行った行為は、書物や芸術、音楽に記録されることによって、その永遠性を獲得する。

このブログという行為もそうかもしれない。

「意識」は、個人の肉体が滅すれば、消失するだろう。

しかし、これら記録された媒体によって、その存在は不滅となるのである。



オカルト的な考えによると、魂もすべて宇宙に記録されているという。

それをアカシック・レコードという。


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プロフィール

ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

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