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偽装する「猫」

食品偽装、産地偽装・・・

政治の世界でも虚偽の報告の数々・・・



「偽」



人はなぜ偽装するのか?

答えは実に簡単だ。

偽装するのもまた人の一面なのである。



科学が発達した現在、偽装のない社会など有り得るだろうか?

まずはこのインターネット。

掲示板やコメント、オークションや買い物など、すべて自分の正体を隠してやっていける。

人を中傷する嫌がらせの記事などが書けるのも、身元がわからないからだ。

書き込んでいるのは大人の振りをした小学生かもしれないし、または国家権力のエラい人かもしれぬ。



テレビも生中継以外は、全部編集された世界だ。

新聞雑誌のニュースもそう。

書く記者、伝える会社の姿勢、思惑でどうとでも編集できる。

ドラマや演劇、オペラだって、筋書きのある台本によって作られた世界である。



2代前の人気を誇った内閣は、劇場型政治といわれた。

今の内閣は、他人事内閣とよばれる。

劇場は演劇だし、他人事なら自分のことではない。

いずれも偽装内閣といえる。



国家だって、地球に境界線が引いてあるわけではなく、権力者を中心にまとまっているように見える虚構の団体なのである。

会社、企業も同じ。

カネもそうだ。

今はカネに価値があることになっているからモノが買えるが、元は印刷局で輪転機を回して刷られているただの紙切れだ。

国家、企業もチカラがあるものと偽装されているし、カネも価値があるものと偽装されているのだ。



要するに、すべて自分自身で物事を遂行しない限りは、それはすべて偽装につながることなのである。

現代の生活において、生きていく全てを自分だけで完了できるわけがない。

食べ物をすべて自分で採集できるだろうか?



縄文時代や石器時代の人間は、きっと偽装していなかったであろう。

獲物を狩猟し、植物を採取して、その日その日を生きていた。

そこには自分でない自分は存在しない。



偽装は豊かさを求めて、文明と呼ばれるものを発達させていったことで、生まれることになった。

車や電車や飛行機の乗り物も発達し、直接自分の足で歩かなくてもよくなった。

こうした道具の発達、これも自分の肉体の偽装に他ならない。

狩猟をしていた昔の時代では考えられない、「仕事」とよばれるものをしていれば、カネが手に入り、生きていくことができるようになった。

自分の肉体の維持に、直接自分が手を加えなくてもよくなった。

さまざまな道具を利用し、文明と権力の世界に身を委ねていれば生きていけるようになった。

これが偽装の始まりである。



逆にすべて自分で手を下さない方がうまくいくことも増えた。

代理人とかいうものや、弁護士だってそうである。

自分の代わりに自分の仕事を引き受けてくれる職業だ。

広い意味では医者だってそうである。

人の肉体を治すのを、本人に代わって引き受けるのである。



偽装が当たり前になった世の中で、「自分探し」なる言葉がはやり出した。

いつも自分を引っ込めて、代理の偽装した自分で毎日を生きているわたし達。

ホンネとタテマエ。

人間関係、上下関係に疲弊しきっていて、ストレスがたまっている。

人と話す自分はいつも偽装したタテマエの自分だったりする。

本当の自分はきっとどこかに眠っているはずだ。

そんな思いが偽装社会に蔓延してきて、自分探しの旅なども始まった。



そもそもこの物質的世界はどこまで「真」なのであろうか?

哲学の世界は、真なるものを追求した歴史でもある。

プラトンは「イデア」を、デカルトは「コギト」を、ヘーゲルは「絶対精神」を、そして西田幾多郎師は「純粋経験」を真実在と考えた。

わたし達が見ている目の前の物は、本当に存在しているといえるのであろうか?

そんなところから哲学は始まる。



宗教的なものの言い方をすれば、肉体の自分は物質的世界に囚われた偽の自分で、真の自分は神に仕える魂なのだ、なんて声も聞こえてくる。

わたしの考えは違っていて、肉体の自分も魂の自分も真であるのだが、その辺りの議論は今回は省く。



とにかく現代は、偽装することで成り立っている社会といえる。

しかし、いよいよ偽装の限界が見えてきている。

人々は偽装をすることにもう疲れてきたのだ。

そして本当に真なるものを再び求めたがっている。



文明が発達して成立した偽装社会は、一見暮らしを便利にしたが、結局、ごく一部の上層階級のみを豊かにしたものであった。

言い方を変えれば、「彼ら」によって都合よく先導されてきた社会だったともいえる。

人は、与えられる「偽」の娯楽、スポーツ、性情報などにうつつを抜かし、「真」の実在に目を向け考えることを放棄してしまった。



現在、偽装社会はそれによって一番得をした者達によって、最後の悪あがきをしている。

その剥げかかった最後のメッキが、ハルマゲドンとよばれる最終戦争によって完全に剥がされる時、世界は再び真の自分に向き合うことになる。

そこには国家もカネもない。

ただ山河ありだ。

偽装することはすでに何の意味ももたず、すべて自分の頭で考え、自分の目でものを見て、自分の足で歩き続けねばならない。

つらいかもしれないが、こんなにすがすがしく満ち足りた自分を感じるのは、多くの人にとって初体験となるであろう。



「シュレーディンガーの猫」を覚えているであろうか?

偽装する自分と実際の自分とがいるのは、自分という存在において、「シュレーディンガーの猫」なのである。

猫は常に生きているか死んでいるかのどちらかなのであるが、ある現在においては、そのどちらかの面が表現されている。

偽装する自分もまた自分、偽装をしない本当の自分もまたどこかに必ず自分として、ある一定の存在確率(状態確率)の元に存在しているのである。



そしてまたこの現代という時代も、歴史的流れの中では、「シュレーディンガーの猫」において偽装する「面」が出ている時代というだけである。

現代の中にも偽装しない本当の時間、時代は、潜んでいる。

表立って表出していないだけである。

石器時代は偽装しない時代であった。

乱世の戦国時代も同じで、力の強いものだけが生き残った。

偽装するかしないか、そのある存在確率の元で、つねに時代は「シュレーディンガーの猫」となっている。



そしてそれらはすべて、絶対矛盾的自己同一でもあるのである。

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二つの曲をつなぐもの

「月光」は、絶対無の極みから、この物質的世界に光がやんわり降り注いでいるイメージだ。

物質に魂が注入され、生命活動・物質的活動をあたたかく見守っている。

疲れたらいつでも戻ってこいよ、絶対無へ、みたいな・・・。

すべての絶対矛盾さえも優しく包み込んで同一化させてくれる、根源的な「愛」ともいうべき力を感じる。




一方、「悲劇的」はベクトルが逆だ。

この物質的世界に活動するわたくし達が、もがきながらも絶対無を目指している雰囲気が漂う。

出だしの「ザッザッザッ・・・」という高みに向かって行進が始まるような張り詰めた雰囲気は、まさに現実的世界におけるわたし達の苦悩とこれからの時間的未来を予感させる。

そして、動画の3分割2番目では、安息感、空虚感が漂う真空の世界に迷い込んだかのような部分がある。

これは生命が生の時間を終え、魂となって絶対無へ死の時間を過ごしに戻ってきたような錯覚を感じさせる。

そしてまた、しばらくすると、突然張り詰めた曲調に変化し、魂は肉体的物質的生の世界に逆戻りする。

転生である。

誰が聞いてもこの20分強の世界に、絶対矛盾のテーマを感じ取り、またそれが同一的に合体していくのを受け入れられるであろう。




つねに現在のモナド的視点から世界を捉えたのが、マーラー「悲劇的」で、逆に絶対無の世界からこの世を照らしたのがベートーベン「月光」であるように感じる。

どちらの世界も、絶対矛盾的自己同一という真理の矢で貫かれている。

猫からモナドへ

未来は、超能力者でないわたし達にはわからない。

だから、未来を考えるとき、ふつう確率を用いる。

明日、AがXになるかYになるか・・・それは明日になるまでわからない。



しかし、過去からの経験則で、AがXになるかYになるかの確率をおおよそ予想することができる。

確率の数値がどうあれ、明日になったら、Aは必ずXになっているかYになっているかのどちらかである。

でも明日になるまで、決してわからない。

その間、AはXとYに分かれているのだろうか? 

それともXであるAとYであるAの2つが同時に存在しているのだろうか?



答えはそのどちらでもない。

Aは1つであり、かつXでありYであるのだ。

つまりAは、別の物同士であるXとYという二面性を持っているだけなのだ。

明日になって、その片面であるXが表現されるか、もう片方のYという側面が表現されるかだけの違いである。



要するにAは自己の内に、XとYという絶対矛盾を内包しているが、それはAという存在においては同一なのである。

内包するのはXとYだけでなく、何種類でも可能だ。

いくつあっても、そのすべてが矛盾的存在としてAに内包され、常にある時点の「現在」において、その中のどれかがAの一面として表現され続ける。

つまり、時間的未来において、その開花する一面が変動するわけであるが、すでに時間的現在においてさえ、Aは自己矛盾を抱えて存在しているわけである。



そうした意味で、「未来」は未だ来ないが現在においてすでに始まっているもの、「過去」はすでに過ぎ去っているが現在において未だ経験されるもの、と考えられる。

時間的現在(歴史的現在)というべきものは、無限の過去と未来がこの現在に引き寄せられているのである。

それがこの世界だ。



この世界に時間が存在する限り、人も動物も気象も地球も・・・すべての個物において、一が多を内包する「シュレーディンガーの猫」の状態にあり、それは即ち、絶対矛盾的自己同一の世界なのである。




絶対矛盾的自己同一は、Aにおける自己矛盾だけではない。

AがAとして存在するには、Aと同一でない矛盾するBの存在や、B以外の多数の矛盾的存在がなくてはならない。

AはBに映され、BはAに映される、そしてまた多面鏡のようにCにも映され、Dにも映される。

映し映され、AはAであることが可能になり、BはBであることが可能になる。

そして、それらA,B,C,D・・・は、弁証法的一般者のMという「場所」において、同一な存在となる。



A,B,C,D・・・は個物であり、個物は時空を引き寄せ、時空の核となる。

それら各個物は、現在における空間的世界において、互いに絶対矛盾な関係にあり、それはまたライプニッツのモナド的存在でもある。

それらは現在における空間的世界で、すでに多面性を表現しているが、それらは互いにMという場所における自己矛盾、自己限定の結果としてこの現在に投影的に表現されているにすぎない。



また一方、無限の過去未来が引き寄せられて存在する現在という時間的世界においては、各個物は多面的な自己矛盾を抱えた形で存在している。



個物から見て時間は、「一の自己否定的多」であるが、時間からみた個物は、「多の自己否定的一」である。

また逆に、個物から見て空間は、「多の自己否定的一」であるが、空間からみた個物は、「一の自己否定的多」として存在している。



こうして、個物を中心の核とし、時空は密接につながりあって存在している。

そして、時空と個物を結ぶ根本原理は、絶対矛盾的自己同一なのである。



時間的現在におけるモナド的存在であるわたし達を含むすべての個物は、互いに絶対矛盾的存在であり、平行な直線が交わることは決して無いが、平行な直線も「無限遠点」においては交差する。



すべての平行的モナドが交差する無限遠点のある場所こそ、絶対無の世界と考えられよう。

シュレーディンガーの猫

「シュレーディンガーの猫」とは、量子力学における有名なパラドックスである。



量子は離散するものであり、1,2,3・・・と整数倍で数えられるものであるが、その存在確率を表わす波動関数の値は、0.5や0.1などと表わされなければならない。

量子の数は整数倍であるのに、存在確率は0と1の間の中間的な値である。



これをマクロな模型で実験をしたのが、「シュレーディンガーの猫」と呼ばれるものである。



1時間のうちに50%の確率で毒ガスの出る箱に猫を入れる。1時間後に猫はどうなっているだろうか、という問題だ。

実はこの答えが簡単なようで難しいのだ。

結果を予想するのはできるのであるが、論理的にうまい説明がなかなか見つからない。



猫が生きている確率は0.5だが、1時間後に箱のふたを開けてみたら実際の猫は、生きているか死んでいるかのどちらかであり、必ず0か1である。

しかし箱の蓋を開けてみるまで、猫の状態は、生きている状態と死んでいる状態が半々に重なり合って存在していることになる。

しかし現実に生と死が同時に成立していることは有り得ない。

これは故に矛盾である。



考えればごく普通のできごとなのだが、世の中全ての事象は、この「シュレーディンガーの猫」であろう。



明日晴れる確率は0,7、でも晴れと雨が同時に存在することは有り得ない。

手術の成功率が97%(0.97)、でも成功と失敗が同時に起こることは有り得ない。



必ず、現実は雨か晴れで、成功か失敗なのである。




「シュレーディンガーの猫」の解決には歴史がある。

まず量子の単独粒子説があったが、これは相反する両者の「重ね合わせ」論となり、状態の変数が増加すればするほど、量子の数も増えていってしまう。つまり、n種の状態があれば、n個の粒子が必要となるわけで、現実的でない。さらに上記のごとく、「猫」というマクロな状態を考えると、さらに現実的でない。

次に量子の波動説があった。しかし量子は基本的に粒子の性質を持つことがわかっていた(光電効果の実験)ので、これもおかしい。

さらに、波動性を持つ粒子説もあったが、これは基本的に先ほどの単独粒子説と同じで、その域を出た説明ができない。



ここでファインマンという学者によって、大きく学説は前進する。

ファインマンは微細粒子集合論(経路積分)を唱えたのである。

例えば、0.5という波動関数をピンクと定義すると、ピンクは赤と白の重ねあわせではなく、限りなく細かく分解した赤と白の「空間的」寄せ集めの事象の結果なのだと考えた。

この考えであれば、粒子の数は、状態変数の種類数によらず、常に1となる。

しかし「猫」で考えると、うまい絵が描けない。

猫が、限りなく細かいパーツに分解されたり結合されたりを繰り返すだろうか?



重ね合わせ論だと、生と死の2つの変数があれば、自分は2人いなくてはならない。

微細粒子集合説であれば、自分は1人でいい。

しかし、自分は生のパーツと死のパーツに無限小に分解できるものとなり、現在は生の無限小パーツのみが組み合わさって自分となっている、と考えるしかない。

これは、はっきりいって意味不明である。



しかしファインマンの学説は結局、正しい結論から導き出される数式と等価なものであったのだ。

問題は、粒子を空間的にのみ捉えたため、話が理解しづらくなった。

現在、正しいと考えられている学説は以下のようなものらしい。

粒子自体が変化・移動するのではなく、そしてまたその粒子自体が波を持つのでもなく、空間に散在している粒子自体を波が伝わって変化移動していくのである。



草原を吹き抜ける風を考えてみよう。

草(粒子)が一定の方向に一様の速度でなびくことで、風が通った(移動した)ことがわかるのであって、草自体に足が生えて移動して風を作ったわけではない。

草は草の元いた位置に常に存在している。しかし草がその背を縮めたり伸ばしたりすることで、そしてそれが隣に続く草へと引き継がれていくことで、「風」と認識できるのである。



つまり、存在確率0.5は、草の存在する確率を表わしているのではなく、その草を伝播する波(=「風」)の状態を表わす状態確率なのである。

草は常に生えており、それが背を縮めているか、背を伸ばしているかの違いであって、それは「時間的」なずれによる違いでもある。

ピンクと認識されるのは、ある一つの粒子において、赤という状態と白という状態が時間的に均等に繰り返されるからとも考えられる。

粒子という空間的存在に時間的要素を盛り込んで考えることで、そして存在確率から状態確率へと考えを移行させることで、このパラドックスは解決されるのである。



ではその状態を決める力は何であろうか?

つまり猫の生存確率0.5というのは、生きている猫も死んでいる猫も同じ1匹の猫であるが、その猫において、生死の分かれ目の「風」が吹く確率が半々であるという解釈もできることになる。

箱に入って1時間後の猫が生きていたとすれば、それは同じ猫であり、死んでいたとしてもそれも同じ猫である。

決して猫は2匹いないし、細かく分解されたパーツになってもいない。

ただそこには、猫を生きている状態にしておくか死んでいる状態にしておくかの、外的な目に見えぬ「力」があるだけであり、その力は0でも1でもない中間的な数値をとることができるのである。



さあ、ここでも「外的」なという、奇妙な状況に出くわした。

「シュレーディンガーの猫」はすでに時間的要素を加味した4次元の世界で考えられて解決したわけであるが、この外的な力が何なのかがわからない。

今、私たちが生きているのも、まず生まれてきたからであり、生まれる前は死んでいたのである。

赤と白が交代してピンクになるように、草が伸縮して風を作るように、「生」と「死」が交代して「生命」を作る。

生命は生きているだけの存在ではない。

永遠に死なない存在は生命ではない。

生命とは必ず「風」であり、生と死を繰り返すことによって成立しなくてはならない。



では、その生命を作るに当たって、かの「生」と「死」を「外的な力」によって、決定づけている(交代させている)のは何であろうか?

わたしは、その決定付けているものは「魂」だと考える。

現在における生きているわたし達は、魂の存在確率1.0、現在お墓に入っているご先祖様における魂の存在確率は0.0、そして1年後のわたしにおける魂の存在確率は1.0未満、1年後のあなたも1.0未満である。

1年後に死んでいるか生きているかはわからないからである。

しかし、つねにわたしはわたし、あなたはあなたの存在であり、その存在は2つでもなく分解されるものでもなく、必ず1つなのである。



でもさらなる疑問が生じる。

生死を決定付けるものが魂であるなら、その魂を注入したり抜いたりする「外的な力」自身は何なのであろうか?

「風」が魂なら、その風を吹かす力は何なのだろうか?

つまり、「シュレーディンガーの猫」の実験において、猫が0.5でないのもわかったし、0.5なのは箱につないだ毒ガス発生装置の確率設定なのであるが、その確率を設定したのは何者なのか?ということである。

それは実験を試みた人間だ、と云われるかもしれない。

その通りである。

では、これをわが生命の世界に当てはめて考えてみよう。



以前の複素数の項でも述べたが、4次元の量子的存在である「わたし」(実数a、猫)に、魂(虚数bi、機械の設定=生きている場合は1,0)が加わって、生命的存在zとなり、これは5次元である。

しかしどうも、そのiさえを動かす、さらに大きな存在X(機械の設定をする人間)を感じずにはいられない。

おそらく、その「人間」は6次元以上の存在であり、わたしという存在もその枠で考える必要があるだろう。



Xは何? これが絶対無の世界なのか?

いまのわたしにはわからない・・・。

物理の世界から入っても、哲学論理の世界から入っても、行き着く場所はいつも同じ処・・・。




ところで最後に、皆さんお分かりの通り、「シュレーディンガーの猫」とは絶対矛盾的自己同一のことなのだ。

まだ不勉強なので、歴史上誰かが同じようなことを云っているかどうかは知らない。

しかし少なくとも、わたしはそう感じる。

量子力学における、この喧々諤々のパラドックスでさえ、西田師に云わせれば、絶対矛盾的自己同一の9文字で説明できてしまうわけであるから、誠に恐れ入る。

いかに真理をついた論理なのか、改めて感無量である。

時速12キロの壁

歩く速度は時速4km/h。



かなり早足で時速6km/h。



では走る速度は何キロ?



小中学校の頃、50m走があった。

わたしは当時足が速く、小6で7秒4、確か中2のときが6秒3だった気がする。



ここではわかりやすく、50mを8秒で走ったとしよう。

100mは16秒で、1000m(1km)は160秒(2分40秒)となる。

これを時速に直すと、22.5km/hである。



マラソン選手のスピードを算出してみよう。

世界の男子トップランナーは42.195kmを2時間6分~12分で走る。



計算すると、

2時間6分のランナー  20.1km/h

2時間12分のランナー 19.2km/h

となる。



50mを8秒で走る、わたくし達の全速力が、22.5km/hだから、彼らがいかに早いかがわかるというものだ。



でもこれはトップランナーの走りである。



まずわたし達のレベルでいえば、歩く速度の倍、8km/hであれば、走っているといえるのではないだろうか?



そこで計算してみる。



フルマラソン 42.195kmを、

8km/h で走ると 約5時間17分

10km/h で走ると 約4時間13分

12km/h で走ると 約3時間31分

となる。



わたしはハーフマラソンの平均タイムが1時間50分だから、時速に直すと、約11.5km/hである。

これがなかなか12km/hを越えるのが難しい。

これを単純にフルマラソンに適用すると、3時間40分でゴールすることになるが、実際はそうはいかないだろう。



マラソンはハイキングではない。

歩いて42キロをゴールしても、それはマラソンではない。

せめて時速8km/hなら、「走っている」感じもする。



だから、マラソンに出るからには、5時間17分以内にゴールしよう。

できれば時速10km/hの4時間13分を目標にしたい。



わたしの初フルマラソンの目標は、これにする。


そしてその日は3月30日だ。

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プロフィール

ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

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