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おじろ橋 ~再会~

 「おじろ橋」。なんて郷愁を誘う、なつかしさを感じる響きだろう。その橋は、北海道の知床半島の付け根に位置する町、羅臼にある。「羅臼」・・・これも心の奥底をくすぐる素晴らしい名前だ。北海道にはこうした夢のある名前のついた町が至るところに残されている。


 私は北海道出身ではない。本やテレビで北海道の良さは感じていたが、学生時代に何度か単独旅行に訪れてから、北海道へ魅かれる思いはますます強くなった。もちろん何十年か前の手付かずの自然とは訳が違う。それでも十分、わたしを引き付ける何か、そして自然があった。羅臼は中でも印象的な町の一つであった。


 初めて旅行で訪れたのが、15年ほど前の夏。まだ当時は、雰囲気をぶち壊す「道の駅」などはなかった。夕暮れになれば、山の草むらや河原に車を止め、透き通る星空を見つめて、流れ星の数を数えながら夜を明かした。人間の話し相手はいなくても、そこら中に「仲間」がいた。彼らと心で会話を交わすのがすごく楽しかった。寂しさなんかは微塵もなかった。


 知床横断道路を下り、町並が徐々に視界に入ってくると、まだ海はかなり先なのに、車の横を悠々とはばたく大きな鳥達が出迎えてくれた。オオセグロカモメだ。関東のカモメより、一回り以上も大きく、翼がもっと黒っぽい。力強くたくましいカモメだ。
 彼は飛んでいる最中であるが、どうも自分と目が合ったような気がした。「アー、アー」と鳴くカモメ。「羅臼にようこそ」と挨拶をしてくれたようにも聞こえた。心の奥までじ~んときて、物悲しげな町の雰囲気も手伝ってか、ハンドルを握ったまま自然に涙が溢れ出た。
 人気のない道端に車を止めて、カモメを見つめた。相手も電柱の上に停まり、こちらを眺めている。呼んでみることにした。車から降りて、食べかけのパンを地面に置いてみる。相手はしばらく考えていた様子であったが、すぐに翼を広げて滑空してきた。ほんの数メートル先である。いつも漁船に群れているので人に慣れているのだろう。そしてカモメたちに悪さをする人もいないのだろう。そしていつのまにか次々とカモメの数は増え、私の足元をチョロチョロしている。嬉しいけれど、道端で迷惑になるといけないので、ゴメンと云って車に戻った。特に歩いている人の姿もなかったのであるが・・・。


 そのまま車を走らすと数分で海に突き当たった。目を左に向けると、小さな橋があった。橋の欄干や街頭のてっぺんに、これまたカモメたちがちょこんと座っておいでだ。橋の名を読んでみる。「お・じ・ろ・橋」。橋にはワシの飾りがあった。ここには今でも冬にはオジロワシが多くやって来る。上空はカモメでいっぱい。私は橋にもたれかかって目をつぶった。辺りは夏にもかかわらず霧が立ち込め、かなり靄(もや)っている。鳴き交うカモメの声。海の香り。波の音。漁船の汽笛。・・・いいなあ、何もかもいい・・・



 年々つのる思いに居ても立ってもいられず、上司に無理を言って北海道に住みついたのが6年前。職が決まっていたわけではない。住めば何とかなると考えていた。移住した直後、職を探して転々としていた時に、この町に再び巡り合うことになった。札幌、丘珠空港から中標津空港まで小型機で1時間弱のひとっとび。あの時はどこへやら、中標津からは車で1時間ほどであっけなく着いてしまう。


 それでも町が近づくと、あのなつかしいオオセグロカモメたちが出迎えてくれた。


「アー、アー、アー」


変わらぬカモメたちに安堵を覚えた。


「帰ってきたよ」


住んでいたわけでもないのに、思わずそう叫びたくなった。

おじろ橋の手前の交差点を左に曲がる。東谷商店のコンビニを右に曲がり、公住橋を渡ると、その右手が病院だ。私はここでしばらくを過ごした。カモメの声で朝は目覚め、カモメとともに道を歩いた。いつも彼らはそばに居てくれた。
 

 羅臼の町は、あの有名なドラマ、「北の国から 2002 遺言」のロケ地だ。私はドラマで結ちゃんが働いていたコンビニ(東谷商店)でよく買い物をし、純が結ちゃんのアルバイトが終わるのを待っていた橋(公住橋)を渡って、病院に行き来していた。おじろ橋も、涼子先生を訪ねた帰りに、純が結ちゃんを送った場所であった。しかし当時私は、「北の国から」は見たことがなく、これらの事実を残念ながら知らなかったのである。その後、テレビで偶然「遺言」を何気に見る機会があり、自分の行った場所があちこち映っているのを見て、懐かしくなった。まだ「遺言」しか見たことがないが、これから過去作もゆっくりと見てみたいと思っている。しかし見ればとたんに誘惑に負けるのはわかっているので、再び北の大地の仲間になる日が来るまでは見ないことにしている。


 以下の写真は、羅臼町HPからの抜粋である。

2:東谷商店 5:公住橋 6:おじろ橋 である。


(2007.1/5記、一部改変)

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さぎ山の夢

 私は動物が大好きだが、特に身近な野鳥は格好の命の仲間だ。その中でもシラサギは大好きな鳥の一つだ。なにせ美しい。長い首を伸ばしてすっとたたずみ、首をS字に曲げて優美に舞うその白銀の体は、見ている者をうっとりさせる。




 昔、埼玉の浦和市(現さいたま市)見沼にある「さぎ山記念公園」を訪れた。さぎ山はかつて「野田のさぎ山」と呼ばれ、シラサギの集団営巣地であった。始まりは徳川8代将軍吉宗の頃の享保年間(1716-35)で、干拓事業により餌場となる水田が多くできたことがきっかけと云われている。その後時代は変わってもさぎ山は保護され続け、昭和13年には野田村鷺繁殖地の名で天然記念物に指定、続いて昭和27年には特別天然記念物に指定された。当時の指定面積は約1.4haで5軒の農家の屋敷林にサギが巣をかけ、これがさぎ山と呼ばれた。昭和30年代の記録では5000以上の営巣が確認され、シラサギがまるで果実のように、森になっているようだったそうだ。

 しかし昭和40年代に入ると、状況は一変する。シラサギの数は年々減り続け、逆に森の中はサギの死骸であふれるようになった。原因は高度成長時代の無頓着に使用された大量の農薬であると思われる。そしてついに昭和47年には営巣ゼロとなってしまうのである。250年も続いてきたものが、ほんの一瞬にして消えてしまったのである! 現在の世界各地で見られる環境破壊の縮図のようではないか。守るのは大変だが、壊すのは簡単なのだ。
 
 現在、元さぎ山のあった場所には記念公園が建っている。公園に入るとシラサギをかたどったモニュメントがあった。目をつぶり耳を澄ます。遊んでいる子供の声と、カラスの鳴き声しかしない。公園はやはり公園でしかなく、シラサギの面影はみじんもなかった。なんともいたたまれず、いつのまにかそれとなく公園を後にした。

 徳川もシラサギを美しいと思う感情があったからこそ保護したのだろう。美しいものを守ろうとする。これは自然な感情だと思う。自然保護なんていうとたいそうに聞こえるが、本当は違う。最初は美しい、かわいいと思ったものを大事にすることから始めればよいのだ。クジラは海のシンボルだ。ライオンはサバンナのシンボルだ。だから失ってはいけない。それでいいのだ。




 今でも郊外の水田にシラサギを見ると、さぎ山の夢を思い出さずにはいられない。やはり農薬のせいで、いつも数はかなり少ない。水田の稲がすくすくと青く伸びる初夏に、田んぼのあぜ道の雑草が茶色く枯れ果てているのを見るとぞっとする。枯葉剤の散布によるものである。枯葉剤などはホームセンターに山と積まれて売られている。ごく普通の一般家庭でも、自宅の庭などに容易に散布可能な存在だ。

 広がる水田を見て、雄大な自然だ、などとオメデタイことを云ってはならない。水田は人間のみが食料を得ようとしている領域で、自然界の営み、絶対矛盾的自己同一の原理からは隔絶された場所だ。一切の矛盾を認めようとしない、物質・利益追求のこの世の典型の一つでもある(しかし近年は嬉しいことにだいぶ有機栽培などに取り組まれている方も多いと聞く)。
 
 遠くでシラサギが飛び立った。わたしは心の中でひそかに鳥たちにエールを送るのである。がんばれよ、生きるんだぞと。


(2006.12/22記、一部改変)

消費社会の限界

世界同時株安。

これはとっくに数年前から、藤原N氏などが声高に叫んでいたことでもある。

降ってわいた災難ではなく、人類のここ数十年の活動による必然の結果なのである。



端を発したのは、アメリカのサブプライムローン破綻による米経済のリセッション懸念である。

それに中国住宅バブルの崩壊懸念がくすぶり、市場心理は冷め切っている。



そもそも、本来支払えるはずの無いカネを、貸すという行為は詐欺に他ならない。

サギはサギでもシラサギは美しいが、このサギは真っ黒で美しくない。

カネを借りた方は、それで本来できるはずのない贅沢をすることになる。

贅沢を生み出すために、何が犠牲になっているか考えればすぐにわかる。

現在の人類の科学力では、「無」から「有」を生み出せない訳であるから、「有」から「有」に変じなくてはならない。

贅沢に変じた元の「有」とは、自然環境、地球自身に他ならない。

環境破壊という行為によって、自然が「贅沢」に変じるのである。



本来のやってはいけない贅沢、有り得ない贅沢をしてしまったツケは重い。

カネが紙屑になるだけならまだいい。

一度壊れた自然は、60億年かけて育ってきた自然は、もう二度と帰ってこないのだ。



人にカネを貸し付け、消費に消費を煽ることで進んできた今の世界経済。

その限界は、とうに見えていた。

物質世界だけを追求する社会は、もう終わりだ。

メガバンクの破産、クレジットカード破綻、預金封鎖、国家のデフォールト、ハイパーインフレ・・・。

それらによって、あっけなく現在の社会は幕を閉じる。。

それはある日突然やってくる。



年金、郵貯など、とうに空っぽだ。

国家の機能が突然停止する。

もう年金も貯金もありやしなくなる。



米経済がリセッション懸念?

オメデタイことを云ってはいけない。

無をないがしろにして、有に執着しすぎた世界は、限界をとっくに越えている。

リセッションどころかデフォールトさえ近づいていることを認識するべきだ。



しかし消費社会によって、物質的な潤いと贅沢を極度に謳歌したのは、一部の「上層」階級だけだ。

わたしたち市民は、本当に「潤った」だろうか?

結局は、一部の上層階級のために、生まれながらに「ブラックシャドー」を洗脳され、えっさかほいさか彼らのために貢いでいただけではなかろうか?

その責任は、わたしたち自身にある。



物質追求オンリーの世界は終焉し、万物は更新する。

それが例の2012年なのかはわからない。

次の世界こそは、霊的な成長を感じさせる社会にしていかなくてはならない。

そのためには、自ら考え、自ら行動することが大切だ。

そしてその方向性を正しくするために、適切な修業と知識が必要なのは、すでに書いた。

ゲームのリセットのように、簡単にはいかない。

この今から、各人が自分の魂と正直に向かい合う時間を日々作り続けていくことが、次の更新後の社会に生き残る唯一の道である。

変わらぬものへ

経平均が大幅に下落している。

株、カネ、資産・・・そして名誉、名声、権威、権力・・・。

この「有」の世界はつねに「変わり行く」世界だが、これらもその一つだ。

下落も上昇も、その原因や値などには興味が無い。

変じ行く事実、その事実のみがわたしを妖しく覚醒させる。




これらはすべて、自分を映す「他者」による相対評価の産物だ。

現世、この「有」の世界での存在だ。

しかし他者が存在しなくては自分も存在しない。

かくいう自分の肉体も、時間を越えた時間(=「永遠の今」)による現世への投影(限定)点である、変わり行く「現在」とともに老いて行き、そしていつでもきのうの意識はきょうになれば変じている。

この世を成立させるために、変わり行くものも大いに結構だ。

冷たいように聞こえるが、あの愛情ですら常に変じ行くものの一つだ。

もし永遠の愛とでもいうべきものがあるとすれば、それは絶対無へ通じる魂の愛である。




変じ行くわたしは、この世界の一構成物であるから、変じ行くものを軽視したりはしない。

その存在は存在として、しっかり認識をし、見極めを大事にする。

しかし、絶対矛盾的自己同一の世界におけるすべての存在は、対立によって存在している。

その究極は、「有」と「無」である。

それは現世における、あるなしの有無ではない。

あくまで絶対無と絶対有だ。

その絶対有が変じ行くものの代表であるならば、絶対無は変じないものの世界である。




わが意識、肉体がどう変じようとも、変じない魂を大事にしたい。

変じることのない魂の追求、それこそが現世における「生きがい」に他ならず、肉体を癒すだけの行為は決して真の生きがいにはなり得ない。

変じ行きつつも変じ行く現世に流されず、変じることなきものへのあくなき追求、それこそが変じ行く世界の個々に求められた宿命であろう。

変じるものを大切に思うこと、それと執着することとはまったく別である。

変じない魂の追求の先にあるもの・・・

そこにあるのが魂の輪廻なのか、絶対無なのか、神の領域なのか、わたしにはわからない。

それは霊的な宇宙そのものであり、真理や法則と呼べるものさえも、その存在と一体となって存在していることであろう。




魂の追求、魂の濃縮。魂の自己限定。

そのためのエネルギーは、この「有」の現世での生き方そのものに秘められている。

魂の自己限定をしっかり行えなければ、それは即ち、この絶対有の世界も有として絶対の完成をしないことでもある。
一方、絶対矛盾的自己同一の世界の宿命を理解し、正しい方向に歩を進めていけば、自分とは? 生きるとは? 世界とは? 存在とは? などに対する答えはおのずと明らかになるであろう。
魂と一体になり、絶対の風に乗って、絶対の世界へと進んでいくのだ。




わたしは必要であれば、財産を投げ出し、肉体の命を捨てる用意さえもできているつもりでいる。

しかしまだ未熟なわが魂を、絶対の風は当分呼んではくれないだろう。

変わらぬものを求めつつ、変じ行くこの世において、もっともっと魂を導く正しい修行とたくさんの知識が必要だ。


隠れ蓑

医師、病院、医学・・・



そう聞くと、何か敷居が高くて、すごいもののように感じるかもしれない。

自分ももっと若い頃はそう思っていた。

しかし彼らの役目は、町でよく見かける「修理工場」。



電気、車、ガス、水道・・・


確かに健全を保つために、「修理」は大事だ。

でも決してそれ以上のものではない。

医学、病院の役目は、肉体の故障を発見し、「修理」し、肉体と不可分である自意識の苦痛を取り除くこと。

そして実際には、それすらできず、お茶を濁してしまうことも多い。

あくまで物質的世界の役割だ。



魂の世界における救済に、白衣も権威も必要ない。

百害あって一利なし。


白衣と権威に身を包みたがる人、そしてそれをまた信奉する人こそ、真の救済が必要なのだ。


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プロフィール

ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

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