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マヤの1年

グレゴリオ暦では、12月31日で1年は終わる。



しかし伝統的なマヤ暦では、1年の終わりは3月20日であり、春分の日、3月21日から1年は始まる。



マヤ暦は17の暦を用いているとも言われているが、特に重要なのは、Tzolkin(ツォルキン)とHaab(ハーブ)暦の2つのようだ。



Tzolkin: 20日×13週  (=260日)



Haab:  20日×18月 +5日(4年に一度は6日)  (=365日、366日)



Haabの最後の5日(6日)は、uayeb(「名前のない日」とか「魂のない日々」)と呼ばれ、これらの日々は祈りに費やされるという。



火は消され、暖かい食物を食べることは禁忌とされる。





天体や宇宙、自然のサイクルに調和したマヤの暦。



現代人よりもはるかに、「世界の中のわたし」を大事にしていたように思う。



わたしを考えるために、まず「世界」を大事にする。



宇宙を知り、時間を知ることは、自分を知ることでもある。



さらに「有」の世界があるのは、「無」の世界があるからでもあることを、uayebは教えてくれている。



まるでuayebは、輪廻転生における次の生への準備の期間のようだ。



・・・ 「魂のない」日々ですよ



西洋人よりも前に、「ゼロの発見」をしていたマヤの民であれば、このような思考も当然かもしれない。





1年の「反省」をして、「自覚」をするのだ。



一方、わたしたちの年末はどうであろうか?



賑やかなテレビから刷り込まれる情報に、身を任せるだけでは寂しい。



みんなでワイワイやるのもいいが、少しでも1年の「自覚と反省」を自分の心に問いただし、新たな年に向けた「生」への準備と、着実に近づいてくる「死」への準備に思索を練るのも大切であろう。





きょうは私たちの、「uayeb」最終日。



何かを変える必要はないけれど、心の中では宇宙の時間に思いを馳せ、自分が生きている意味、生命が存在している理由について、わずかな時間だけでも考え直してみたい。



祈る人の心に、いつでもどこでも「神」は降りてくるのです。


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時空論 2

繰り返しになるが、「わたし」の存在は、絵に描くと下図のようになる。

90.jpg

「わたし」は一般者の自己限定によって存在する。最上位の一般者は絶対無である。

無数の絶対矛盾的「わたし」は、自己同一の作用によって、弁証法的一般者の世界へ辿り着く。



わかりやすい例をあげる。

わたしは人間だ。人間は動物だ。動物は生物だ。生物は物体だ。物体は地球の一部だ。地球は・・・ 

とより一般的な者へと昇華される。それぞれが、円錐の平面をなし、それぞれは自己限定、自己同一の作用によって、絶対矛盾的自己同一の世界を形成している。円錐の底面は無限であり、半径無限大の楕円が絶対無である。そして円錐の頂点(=自己限定の極み)に「わたし」がいる。



ここで考えを改めなければならない。

ふつうわたし達は、この宇宙の空間の中に自分がいて、時間の流れにのって生きていると思っている。つまり自分の「外」に空間と時間があるようなイメージだ。

このイメージを180°転回してみよう。

自分の「中」に空間が広がり、自分の中に時間が存在するという風に。



今までの章で、世界はわたしによって「有」となり、絶対有として存在することになったと述べた。

わたしに映され、純粋経験、直観されることにより世界は実存となり、逆に世界に映されることでわたしはわたしとなって存在する。

それはつまり、わたしの中から空間的世界は派生することを意味している。

少なくとも、この宇宙的世界は、「わたし」を入り口の一つとしている。



一方、時間的世界はどうであろうか?

歴史的過去と歴史的未来からやってくる時間のベクトルが交差するのが現在だ。

その現在にわたしは空間的に存在し、行為的直観を行うことで、空間的世界を創造している。

91.jpg

しかし時間も空間と同じで、わたしによって時間は映されている。また逆に時間にわたしは映される。

わたしは時間であり、時間はわたしだ。

わたしがいなくては時間は存在しない。



時間はわたしの中に存在し、時空の接点であるわたしにおける現在で行為的直観を働かせつつ、過去と未来を自己同一させながら、時を越えた時間的宇宙である「永遠の今」に辿り着く。

まったく空間的絶対無と同じである。

そして時間的絶対無である永遠の今も、空間的絶対無も、それら一切を内包した無限球、絶対的「絶対無」に包まれる。



まさに時空は、「わたし」を中心に絶対無の絶対有として存在しているのである。

わたしは中心であり、時空の世界の接点、力の通り道でもある。

そしてわたしが存在しなければ、時空は存在し得ないし、時空が存在しなければ、わたしは存在し得ないのである。



ここで力の働く方向について述べてみよう。

前章のごとく、時間的世界においては時空の接点である、わたし(=現在)に向かって「多の自己否定的一」としてベクトルは作用している。そしてわたしを中心として通り抜けると、そこには空間的世界が待っている。わたしはわたしである現在において、行為的直観を行うことによって、空間的世界を「作られたものから作るものへと」創造して行く。それはつまりわたしから離れ行くベクトルであり、「一の自己否定的多」だ。



これらわたしを通り抜ける「力」によって時空は形成されているといっても良い。

その力が何なのかは、まだわたしにはわからない。



ここで、上の図をわたしを中心に拡大してみよう。

92.jpg

わたしの時間的成分は現在である。

わたしの空間的成分は行為的直観である。

そして時空どちらにも分類し難いのが、直観であり、純粋経験である。

純粋経験とは、西田曰く、「未だ主も客も分離していない」状態だというが、つまり時空の成分にも未だ分離していない存在だということでもある。



空間的世界の自分を司るのは主に「肉体」である。

時間的世界の自分を司るのは主に「意識」である。

この世界を空間的に動き回れるのは肉体であるが、時間的世界を経験できるのは意識である。



しかし、肉体と意識は自分において絶対矛盾的自己同一であり、不可分な存在である。

肉体は意識がなければ存在し得ないし、意識も肉体がなければ存在し得ない。

意識と肉体は相互に働きあっている。

だから意識は肉体と共に空間的宇宙を「所有」(=経験)できるし、肉体は意識と共に時間的宇宙を「所有」できるはずだ。

この理論から行くと、時間旅行は可能なように思える。

未来を予知するジュセ氏などはこの例ではないだろうか?

そもそも時間も空間もわたしの中にあるのであるから、不可能な理由はないだろう。


以上をまとめると下図のようになる。

93.jpg

わたしの「所有」する世界を図では斜線で示している。

斜線の領域は、わたしによって異なるであろうし、わたしが犬や猫、または昆虫などであったらまたかなり異なってくるであろう。

ただし共通するのは、この砂時計型の時空の世界だ。

必ず時空は、「わたし」が中心に存在し、すべての時空は絶対無の無限球の中にある。



この時空の中で、わたしによって経験された世界のみが、絶対有として、有を有たらしめ、実存として存在することが可能となるのである。

そこにおいて初めて、絶対無が絶対有に映し出され、絶対有は絶対無に映される。

この世界を極限まで支配する、絶対矛盾的自己同一の世界が完成する瞬間である。



わたしの存在意義は、果てしなく大きい。



(注)西田幾多郎先生の哲学用語を多用していますが、読解はあくまで私の個人的な見解であり、西田先生の意図するところとは異なると思います。どうかその点をご理解くださいますようお願い申し上げます。

時空論 1

最上位の弁証法的一般者である「絶対無」の、繰り返された自己限定として、この宇宙があり、そして「わたし」が存在する。



わたしは現在において、行為的直観をし、反省・自覚する行為を通して、この世界、宇宙を自己に映し、自己は世界に映される。

つまり、わたしによって、この世界は「有」となって存在することができる。

わたしが有であることの証明で、わたしは有をより有たらしめる役目を司る。

それが絶対無を頂点とする、絶対矛盾的自己同一の世界の原理でもある。



ではわたしが行為的直観をし、有を存在させるこの「現在」とは何か?



現在とは時間なのか?

時間といえば、過去と未来もそうだが、それらとの関係は?

そもそも時間とは何か?



西田曰く、時間とは「非連続の連続」であり、現在とは「過去と未来が相互否定的に結合するところ」だという。

そして時間は時間を越えた一般者である、「永遠の今」というべきものによって限定される形で存在している。

「永遠の今」が時間と接する場所が「現在」であり、その現在においてまさにわたしたちは行為的直観をして世界を有たらしめているのだ。



現在というものを今という「瞬間」から定義することはできない。

過去と未来は、現在を起点に互いに反対方向に遠ざかりゆくベクトルではない。

現在とは、無限の過去と無限の未来の双方向から近づき伸びてくる2つのベクトルが、互いに交わり結合消失する場所として説明される。

つまりわたしたちの活動する時間的現在は、「多の自己否定的一」となる。



ベクトルは現在において非連続であり、非連続である現在は連続する。

連続する現在において、わたしたちは行為的直観から活動を行い、「作られたものから作るものへ」と世界を変じていく。

そうした意味で、空間的世界は、逆に「一の自己否定的多」である。



過去と未来とは結合するわけだから、現在とは過去と未来が消失し、かつ同時存在する場所でもある。

わたしは現在において、過去を思い出し、未来を想像することができる。

しかしこれは単に過去と未来を時間的に想起しているだけであろうか?

否。

わたしは過去と未来が同時に存在する現在において、過去を直観し未来を直観しているのである。

あくまで現在において、過去と未来を「経験する」のである。



過去と未来を経験する能力は、生き物の中でやはり人間が一番優れているであろう。(予知能力という意味ではない)

絶対無の世界は、生き物を進化させ、人間を生むことによって、ひとまずその存在、「有」を確かなものにした。

これはいわば「空間的」な世界における有の確立である。



では、過去と未来を経験する能力に秀でた人間の存在の、時間的な世界における意義は何であろうか?


カラスザンショウ

88.jpg

よく見ると、クスノキの根元から・・・

89.jpg

カラスザンショウくんでした。



葉も落ちて、トゲトゲの茎だけになっています。


わずかの土の部分から、けなげにも1年でこれだけ成長しました。



草刈のおじさんからも何とか逃げ切りました。



葉が残っていた頃、この小さなカラスザンショウに、クロアゲハの大きな幼虫と、アゲハの幼虫が数匹くっついておりました。



さなぎになれたかどうかは知りません。



ビルの中、コンクリートの海の中、それでも命のサイクルは必死に回り続けます。




みなさん、そばを通ったら、やさしく見守ってあげてくださいね。

マヤ暦の神秘 2

自分が惹かれる人物のKINを調べたら、驚愕の事実が判明した。



まずもう一度自分のKINを確認する。


KIN 191 「9・青い猿・WS 青い夜」



以下はわたしが思想的行動的に影響を受け、また感銘を受けてきた人たちである。

そのKINを見てみると、驚くべき関係を見た。



西田幾多郎 1870.6.17生 KIN 190 「8・白い犬・WS 青い夜」 =WSが同一、太陽の紋章が神秘KIN、城が同一

畑正憲(ムツゴロウさん) 1935.4.17生 KIN 194 「12・白い魔法使い・WS 青い夜」 =WSが同一、城が同一

宮澤賢治 1896.8.27生 KIN 131 「1・青い猿・WS 青い猿」 =太陽の紋章が同一

高村光太郎 1883.3.13生 KIN 159 「3・青い嵐・WS 赤い地球」 =城が同一

ジャック・マイヨール 1927.4.1生 KIN 118 「1・白い鏡・WS 白い鏡」 =WSが神秘KIN



まず最も尊敬する、西田先生、ムツさんとはWSが同じであった。

WSは太陽の紋章が顕在意識を表すのと対照に、潜在意識を表す。

その潜在意識がお二人はわたしと同一であり、西田先生に至っては、わたしが西田先生の次のKINであった。

これはまさに先生の意識を受け継ぐ者という意味を、恐れ多くも感じる。

さらに西田先生は、顕在意識である太陽の紋章もわたしの神秘KINであり、惹かれる存在なのは当然だった。

ちなみにWSが同一となる確立は1/20である。



宮澤さんも面白い関係だった。

彼も、太陽の紋章、WSともに「青」でわたしと同じ。

そして太陽の紋章が同一。

高村さんは少し縁がうすいが、それでも城が同一。

城は潜在意識の上位の、「集合的無意識」を表わす。



イルカと体一つで泳ぐジャック・マイヨールさん(故人)。

素潜りで水深105mの世界記録を持つ人でもある。

彼の行動、思想にはずいぶんと共感してきたのであるが、彼とはWS(潜在意識)が神秘KINで、惹かれる関係であったのだ。




最後にわたしの好きなミュージシャンを一人。



YUKIさん 1972.2.17生 KIN 120 「3・黄色い太陽・WS 白い鏡」 =WSが神秘KIN



解説不要です。

マイヨールさんと同じでした。




総じて、青をKINに持つ人が多く、次に白が多い印象。

この人たち以外にも、わたしが今まで思い入れをした人は、大体が青か白のようです。黄色の人とはうまくはいきますが、強い思い入れはないようです。(←かみさん類似KINだけど黄×2、当たってる?(;^_^A)

一方、赤はまずいません。赤とは相性が悪いのでしょうか? 

この辺のことは、本に解説はされていませんが・・・。



とにかく西田先生とムツさんにはびっくりしてしまった。

出席番号?がこんなに近いなんてね!


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プロフィール

ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

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