生命論 ~あなたは何故生まれたのか?
第1部 自分の形成 ~世界の中の私~
第2部 絶対矛盾的自己同一の世界
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この世は絶対矛盾的自己同一の世界であり、あらゆる矛盾を内包し、その矛盾を解消しようと力が働く。
それがこの世を前進させるパワーとなり変化が生じる。
矛盾を内包するのは「有」だからである。
我と汝、男と女、明と暗、善と悪、生と死・・・
あらゆる現象的矛盾、機能的矛盾を抱えつつ、世界は前進していく。
有とはすなわち矛盾である。
その矛盾を同一化し解消していく作業を限りなく続けると、最後に「絶対無」の世界に辿りつく。
絶対無は、あるなしの相対無ではない。
あらゆる有の世界の矛盾をも内包してしまう、そこは一切の矛盾がない世界である。
宇宙論で言えば、ビッグバン以前の宇宙が絶対無のようなものである。
ビッグバンによって、この有の世界が、絶対無と対立矛盾的に創生されたのである。
逆に考えると、有が存在するためには絶対無がなくてはならないのである。
そこには絶対無と有(絶対有)との絶対矛盾が存在しなくてはならない。
ところで「所有」の概念について考えてみよう。
「自分」とは何かを説明するに当たって、所有の概念は避けて通れない。
わたしがわたしであるためには何が必要か?
まずわたしの体、わたしの心がなくてはならない。
つまり「my なんとか」である。
前にも述べたが、その他にも「わたしの」とつく名の所有物が限りなくあるだろう。
あなたはどこまでが「わたしの」世界だろうか?
家の前の道路はわたしのではないかもしれないが、わたしがいつも通る道路だ。
それも広い意味で、「わたしの」世界だ。
こうして、わたしがわたしであることは、常に多くのものを所有することで成り立っている。
しかしその所有の概念を裏から見てみよう。
わたしはある対象を所有しているが、その所有物の中にはわたしが映されているのである。
多くの所有物を持つことは、それだけわたしという自分を多く映し出すことでもある。
つまりは、映し出されるわたしは、映し出されることによって、ようやく存在するのである。
「直観」という言葉を覚えているだろうか?
直観とは「純粋経験」である。
主と客が未だ離別していない、限りなく直観的同一的経験である。
その直観することが、「存在する」ことの定義でもあった。
ちなみに主客が分離した状態が「反省」であり、直観し反省する行為全体が「自覚」であった。
所有物に映し出されるわたしとは、直観していることに他ならない。
それはつまり、わたしが存在することなのである。
存在するために直観する。
存在するために所有するのである。
ところでわたしを「世界」に置き換えてみてみよう。
わたしは対象(所有物)にわたしを映すことで存在する。
世界は対象に世界自身を映し出すことで存在する、となる。
これらはすべて「対応」と「逆対応」の論理でもある。
自らが主体となって、対象を所持し対象に「働きかけ」ている(=対応)が、それはつまり対象から逆に「働きかけ」返されている(=逆対応)ことでもあるのである。
そうした対応と逆対応の論理によって、存在は実在となり直観が生じるわけである。
では世界は何に対応し、何に逆対応されているのか?
何によって存在し、直観されているのか?
ここで直観の原点に戻らなくてはならない。
直観という純粋経験を経験するのは、人間を含む生物でなくては為しえないということである。
それもアメーバでは直観はできても(敵や餌に反応する)、反省、自覚することが不可能であり、限りなく知能の高い生物であればあるほど、直観、反省し、世界を自覚することが可能となる。
つまり世界は、わたくしたち全てに働きかけてくれるが(=対応)、逆にわたくしたち生命によって直観されている(=逆対応)のである。
見方を変えれば、わたしが所有する対象は世界の一部であり、所有物を世界に変えれば、わたしと世界は対応と逆対応の関係である。
さらに思い起こしてみよう。
わたしは人間だが、人間を含む生命体はこの地球という有の世界から発生してきた。
つまりは地球の一部であり、有の一部である。
そう考えると、わたしが自分の目で見ている世界は、わたしが見ているのではなく、世界がわたしの目を使って世界を見ていると考えられる。
わたしという存在は、世界が世界自身を見つめるために存在しているのである。
それはつまり、世界がわたしを対応に使い、わたしから逆対応を求めていることなのである。
それが有という存在の根拠だ。
わたしは存在するために世界を使い、世界は世界の存在のためにわたしを使うのである。
世界にとって、存在をはっきりさせるためには、多くのわたしがいた方が良い。
そして確固たる逆対応を受け取るには、わたしは進化していたほうが良い。
有を有たらしめるため、そう、そのためにわたしは存在しているのである。
そして生命は発生してから、長い時間をかけてでも知能的進化をとげてきたのである。
すべては、有の存在のためにである。
有は絶対無に矛盾することで存在する。
この世が絶対矛盾的自己同一の世界である限り、生命の誕生は必然であり、自覚する存在であるレベルまで生命が進化したのも、必然の帰着なのである。
たとえば、地球に生命が誕生する以前の世界を想像してみよう。
30億年前の地球には、当時生命は存在せず、大地と海と空だけがあった。
自覚できる人間が想像するからその世界は「在る」のであって、当時の地球においては大地と海と空を存在させる対象物はいなかったのである。物質的には「あった」ヵもしれないが、世界は「有」ではなかったのである。
でも遠い宇宙に当時宇宙人がいて、地球のことを観察していたら、この地球という有の世界は存在したことになる。その場合の対象は(=対応)、その宇宙人であり、その宇宙人から逆対応されて地球は存在するのである。
しかしこうも考えられる。その後、今という未来において、人間という自覚できる知能を持った生命体が地球に発生し、その人間によって、30億年前の過去が想像するという作業によって「映し出されている」わけである。
つまり30億年前の地球も、時空を超えて、人間という対象物によって確かに存在したといえるのである。
今回はここまでにする。
生命の誕生した意義について、絶対矛盾的自己同一の世界の観点から考察した。
命はどの命にも、世界を有たらしめるという重要な存在意義があり、決して意味のない命などない。
多くの命、多種多様な命は、それだけ多くの矛盾を生成する。
矛盾を生成することが有の世界の前進するパワーになり、多くの矛盾はより世界を有たらしめることができる。
命の大切さについて、このように考えてみてはいかがであろうか?
つまり、命が大切なのは、絶対矛盾的自己同一の世界の支配にあるこの世界において、当然必然の結果なのである。
あなたが生まれたのは、新たな矛盾が生まれたことでもあり、それは逆対応によって世界をより有たらしめ、有の世界を新たに前進させるパワーを生んでいるのである。
次回は、おそらく4部作最終編。
「死」について考察する。
BIG FULL MOON ~ at Thurthday Night
通勤ジョガー
毎日通っている、いつもの路線。
バス、地下鉄、タクシー。
すべて走ってみよう!
と、bakaな思いつきで先週始めた、通勤ジョガー。
出で立ちも通勤服は辞し、ジョガラーへ。
外勤に行くのにやや抵抗感があるが、そこはどこ吹く風。
白いの着ちゃえばあまりわからない、これ特権。
走るとはじめて気付くことが多い。
かつては点から点の移動でしかなかったが、今は線で移動する。
あの店、この店よさげじゃない。
この坂って由緒あるのね。
あら、こんなところにこの学校あったのね。
民家の軒先の鉢植え、あらこんな植物が・・・。
まあ、それなりに日々発見がある。
で、帰りはコンビニ弁当生活を辞し、吉野家生活に突入したのであった。
点移動では吉野家はないのじゃ。
「牛丼、並。」 と注文する。
「なみいっちょう、ありがとうございま~す!」
このテンポがいい。
さらに私は、またまたobakaなことに、牛丼の早食いに挑戦している。
もっか1分を切るところまできた。
ちゃんと紅しょうがを盛りつけして、である。
そして早く食って、
「おかんじょうお願いしま~す。」
と店員を驚かすのが、また楽しい。
一瞬、「あれっ?」ていう顔するんだよ。あはは。≧(´▽`)≦
通勤ジョガーだけで週40km走れる。
日曜日のトレ要らないじゃん?
ちょうど体もほぐれて気持ちがいい。
走る喜び・・・priceless
なんてね。あは。 どっかで聞いたぞ、オイ (#⌒∇⌒#)ゞ
命の灯
あきらめていた自分に腹が立った。
おなかを空かして彷徨っているかもしれない「彼ら」を思い、猛スピードで車を走らせた。
利根川土手にある、今年やっと見つけたポイントへ。
ここは2週間前に訪れたとき、すでに絶望的な草刈をされたあとで、一面見渡す限りの枯れ野になっている。
私の大好きな蝶、ジャコウアゲハ。
前にも書いたが、食草となるウマノスズクサが開発や草刈によって激減し、その生存が危惧されている美しい蝶である。南方系の蝶であり、ワシントン条約にもリストアップされている、あのトリバネアゲハと同じ属である。
幼虫などは、細部を除けば、見た目の雰囲気はトリバネさんとそっくりだ。
草刈は仕方ないのかもしれないが、仕方がなんとかならないものか。
人の邪魔にならない川岸などの一部は残しておくとか。
名のない草むらも、あまたの命にとっては大事なお宿なのだ。
草刈で、ウマノスズクサは一気に消失してしまう。
いっしょに幼虫やさなぎも一網打尽だ。
草刈の重機が通ったあとは、無残につぶされた無数の幼虫たちと、根元で切断され息絶え茶色く乾き変色したウマノスズクサが束となっていた。
何かと問題の多いザル行政にあって、草刈だけはなぜこうも律儀に完璧すぎるほど完璧に行うのであろうか。
これはもう皮肉にも、芸術的ともいえる域に達している。
土手にあがる。
風景は2週間前と変わらない。
一面の枯れ野だ。
ここのどこに生き物が潜んでいるのだろうか。
そう疑いたくなるくらい、絶望的な風景だ。
だが、私の直感は囁いた。
そう、かすかな望みはある。
かつて、大いにスマノスズクサが繁っていた周辺をくまなく探した。
草刈で、朽ち、枯れ果てた雑草の山が辺りの地面に覆いかぶさっている。
地面に這いつくばって、目を凝らしてよくよく探し続けた。
すると、その覆った枯れ草のすきまに、見慣れたあのかわいらしい葉っぱが、少しだけ顔を覗かせているではないか。
あった!!
殺人ならぬ殺草重機の猛威を逃れたスズクサが、わずかに生き残っていた。
そして、そのわずかなスズクサに、いたんだ。
「彼ら」が・・・
彼らも重機をかいくぐった生き残りなのだろう。
でもそのわずかなスズクサに、本来であれば有り得ない数の彼らが、必死にへばりついていた。
これでは、もう1-2日で食べ物がなくなって、みな全滅してしまう。
用意してきたバケツに、そっと移した。
もちろん自宅に育てているスズクサに移動させてあげるのである。
数匹だけは残しておいた。その程度なら、残ったスズクサを食べて生きていけるだろう。
死の枯れ野にも、命の灯はひっそりともっていた。
わたしは彼らの嘆きと悲鳴を聞いた気がした。
そして必死にも死の淵で生き続けるその姿に心をうたれ、また草刈に限らず、すべてが利己的な人間の身勝手さに、怒りと絶望その他を含めた複雑な感情が渦巻き、わたしはしばし腰を上げることができなかった。
数えたら20匹いた。
みんな今は自宅の庭に暮らしている。
来年の春には、彼らも頑張って羽化してくれると嬉しい。
そして私はというと、これからも草刈から守るために、さらにスズクサの移植作業を続けなくてはならない。
行政を動かすには、自分一人の力では無理だろうが、かといって同志もいない。
本来、自然のままに生育させるのが一番であるが、執拗なまでに行われる草刈という人工的な行為により、生存が脅かされている生き物もいる。
すでに自然とばかりも言っていられない状況であり、誰かが逆な意味で人工的な手を加え、守ってあげてもいい。
良かった・・・
良かった(‐^▽^‐)
北海道だからこそ、良さが出るんだよ。
わたしは昔、北海道の王国を2回、見に行ったもん。
借金は仕方ない。
ムツさん一人が頑張ってもおっつかないから、維持費。
北海道に心の灯がともったようで、なおさら帰りたくなったよ。