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少年の心のロスチャイルド

ロスチャイルドトリバネアゲハ Ornithoptera rothschildi

70.jpg

トリバネアゲハは世界で最も美しく、最も大きい蝶である。

英語ではBirdwing Butterflyという。まさに鳥の羽だ。

昔、発見当初は鳥と間違えられ、ショットガンで打ち落とされたという話もある。

そして、あのワシントン条約に名前が載っていることで有名な蝶でもある。

現在では個人的な捕獲は禁止されているが、当該国同士の輸出入許可証があれば、標本の売買は可能である。産地国では飼育によって標本を作り、それを売却した資金でさらなる自然保護の研究を進められるという利点もあり、あながち標本売買が即極悪だということではないらしい。

トリバネアゲハは、なんと私の大好きな日本のジャコウアゲハの親戚で、ウマノスズクサを食べて育つ。

東南アジアを中心に、インド~オーストラリアの一部まで、3属が存在する。

特に、純粋なトリバネアゲハ属(Ornithoptera)は11種が存在しており、なかでもこのロスチャイルドトリバネアゲハは最も遅い1911年に発見された。

発見時は超貴重な蝶であったが、その後、日本の西澤氏によって、良好な生息地が発見され、その価値は下落した。(といっても貴重な事は間違いない)



価格が250分の1になったチョウ




ウォーター・ロスチャイルドに献名されたこの蝶。

彼はいったいどんな人物だったのだろう。

ロスチャイルドといえば、世界の資産の8割を牛耳るとも云われる、あの666の世界でお馴染みの国際ユダヤ資本の親玉であり、かつフリーメーソン・イルミナティのボス中のボスだ。

そのロスチャイルドと蝶?

ちょっと想像できないなあ。



・・・実はこんな人だったらしい。



ウォーター・ロスチャイルド




お金は山ほどあったから、湯水のようにコレクションにつぎこんだらしい。

でもそのおかげで、歴史的な質の良い標本が後世に残される事になった。

そのすべてがうなずける行為とは思わないが、博物館として後世に残したのは評価できる。

世界中の財界人がその家紋を見ただけで震え上がるという、あの泣く子も黙るロスチャイルドさんも、虫好き少年の心を持っていたのですねえ。

でもまあ、上のリンクを見ると、虫だけでなく、鳥や犬や動物など全世界の生き物を集めていたというから、やっぱりスケールが違いますね。

でもちょっと怖いです・・・。

今回は私の大好きなトリバネアゲハ君とロスチャイルド様のおもしろいエピソードを載せてみました。


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絶対矛盾的自己同一の世界

この世は矛盾でできている。

矛盾はこの世を動かすエネルギーでもある。



西田哲学の「矛盾」は捉えづらいので、ニアリーイコール「異なる対立的存在」と考えても差し支えないと思う。



前回も述べたが、我がいるのは汝がいればこそ。

男と認識するのは女がいるからこそ。

高気圧があるのは低気圧があるから。

山があるのは谷があるから。

海があるのは陸があるから。

昼があるのは夜があるから。

プラスがあるのはマイナスがあるから。



全ての世界は矛盾である。

つまりこの世、「有」の世界とは矛盾の世界なのである。

それもただの矛盾ではない。



いくら自己の中に他を映すといっても、絶対に我は汝ではあり得ない。

絶対に海は陸ではない。

そこには、絶対否定、絶対矛盾がある。



自分とは異なる絶対矛盾的な汝を含む「他」があって、自分はこの世に存在している。

そこにある木、そこにある石ころ。

それらすべてが、自己とは絶対矛盾的存在である。





しかし我と、我の絶対矛盾的存在である他とは、その存在する「場所」においては同一の存在なのである。





「場所」とは、今居る現住所のことではない。

手前勝手な例をあげると、サンショウとミカンはまったく違う、つまりは絶対矛盾的な植物であるが、同じミカン科といいう「場所」においては同一である。さらには「植物」という場所においては、シダも樹木も草花も同一的存在である。

「色」で考えてみよう。

赤は色である。青も色である。色という場所において赤と青は絶対矛盾的存在として存在するが、それらは色において同一なのである。



さらに飛躍していこう。

人間も犬も猫も鳥も動物という場所において同一である。

さらに動物も昆虫もクモも植物もミジンコも生物という場所において同一である。

生物も無生物も石ころも水も、地球という場所において同一である。

地球も月も太陽もシリウスもアンドロメダも宇宙という場所において同一である。



そして・・・

物体じゃないと考えられているもの。

星や塵ではない宇宙の真空でさえも、それは「有」という場所において同一なのである。



これら云い方のベクトルの方向を逆にすると「限定」になる。

つまり、宇宙の自己限定で地球があり、地球の自己限定で人間がいて石ころがある。

人間の自己限定で我がいるし汝もいる。



では、すべての「有」を包む場所はないのだろうか?

3次元の構造として想像するのは不可能だが、論理的に考えることはできる。

それが「絶対無」なのである。

有を包むものが「有」であるわけがない。

有であるなら、さらにその有を包む有が存在してしまう。



それは無でしかない。

ただそれは、「コップが無い」などという無とは違う。

それは有ることに対する相対無である。

「有」を包む無は「絶対無」でなくてはならない。



有は必ずその上位者(=場所、=弁証法的一般者)からの自己限定を受けて存在する。

絶対無は何者からも限定を受けることのない存在である。



つまり絶対無の自己限定としてこの世界が存在し、自分も存在していることになる。

そして絶対矛盾的な個の存在は、その一般者の場所において同一となる。

絶対矛盾的自己同一の世界、それがこの世なのである。

有の世界から絶対無の世界まで、すべてを貫く絶対的なシステムなのだ。





西田はこの究極の世界に辿りついたのであるが、実は私も中学生の頃、同じようなことを考えていた。

そのころ子供ながらに思索したことを書きとめていたのであるが、西田の言う「絶対無」を私は自分の名前をとって、「○○○空間」と呼んでいた。そのすべてを包む空間の中に宇宙が存在する、といったことが原稿用紙に汚い字で書いてある。(それは実家のタンスに眠っているはず) その後、その概念は難しくなりすぎて大学生になる頃には受験も失敗したこともあり、これ以上発展させることなく終わってしまっていた。(ここが凡人である私と西田の違いであろう)



これは自慢話ではない。何が云いたいかというと、つまり私は、西田の一般的に難解とされる論文を、どこかで読んだような錯覚を覚えつつ、比較的スムースに読み進められるのである。そして子供の頃は、親は勿論、誰に言っても理解されなかったこの手の話を、何十年も前に同じように考えていた人がいることを知って、なんともいえない感慨と共に、妙な安堵感を覚えた次第である。普通には西田幾多郎全集の古本など前に山積みになっていたりすれば息がつまるのではないかと思うが、私にとっては思想、魂をも共有できるような、ほっとできるオアシス的な喫茶店のような存在に感じる。

(しかしもちろんこれは私の現在における自分の頭のレベルでの解釈であって、本当の西田の意味するところは西田自身になってみなければわからないのは云うまでもない)





話がそれた。

とにかく絶対無まで辿りついた。



もう一つ忘れてはならないことがある。

冒頭にも述べたが、矛盾はこの世を動かすエネルギーである、ということだ。



どういうことか。

有の世界は絶対矛盾的存在である「個」によって形成されているが、この有の世界はその個と個の「矛盾」を解消させる方向に力が働くということである。



水は高いところから低いところへと流れる。

高気圧と低気圧があればその矛盾を解消するように風が吹く。

人間の世界もそうだ。

赤ん坊の行動一つとってもよくわかる。

眠いけど寝付けない。その矛盾を解消する行為が「泣く」ことだ。

おなかがすいたけど食べ物が口に入ってこない。そしてまた「泣く」。

大人になっても同じ。

裁判所なんて云ってみれば矛盾解消所だ。

てんやわんやの国会も、あーだこーだいう人々の矛盾から、それを統一解消して議案を議決していく。

そして矛盾の解消はまた新たな矛盾を生み、またその矛盾を解消しようとしてこの世は動いていく。



それは絶対矛盾的存在同士の矛盾にとどまらない。

自分も自己矛盾に満ちている。

あーしたいけど、こーもしたい。

好きだけど嫌いだ。

食べたいけど食べられない。

こんなのはしょっちゅうだ。

自分とは自己矛盾的存在でもある。

それを解消、統一するように行動する。それが自己だ。



有の世界に存在するものは、そのすべてが矛盾的存在に宿命づけられている。

矛盾が存在しないのは絶対無だけだともいえる。





また長くなったので、続きは次回にする。

自分が存在する意味、生命が存在する意味、生と死の意味について考察しなくてはいけない。

それがわからなければ、死の恐怖はなくならないし、あまりにも死が悲しすぎる。





今、少しだけ「悲しみの檻」の鍵が開きかかっている・・・


彼岸花

69.jpg

本当に彼岸に咲いた。

去年の秋に植えた球根。

忘れていたが、1週間ぶりに帰ったら咲いていた。



彼岸花は鱗茎に毒があり、モグラやネズミ除けになるといわれる。

だから墓地などに多い。



日本では、おそらくお彼岸に咲くことと、毒があること、墓地などに多いことから不吉なイメージがある。

しかし韓国では、相思華ともよばれる。

葉と花が同時に出ないことから、そう呼ばれるのだとか。

確かに花が咲いているときは、葉はない。

咲き終わると、葉が出てくる。

そして春になると葉も枯れて、忘れられる。

彼岸のころに、すっくと茎を伸ばして、曼珠沙華となるのだ。



埼玉、日高市の巾着田は彼岸花で有名だ。

わたしが子供の頃、住んでいた近くだったりする。



曼珠沙華の里




自然も多くて、散策にはお勧め。

でももう10年以上行ってないな。

自分の形成 ~世界の中の私~

「自分」を正確に説明できるだろうか?

西田幾多郎の論文を参考にしながら、私自身の考えを述べてみたい。





死の恐怖は、自分がずっと生活してきたこの世界から消え、二度と自分という存在に会えなくなると自覚することによる。その自分という思いがどうやって形作られるのか、考えてみたい。



まず自分というと、自分の身体を思い浮かべる。そして身体と特に脳によって賦活される意識を、自意識と考えている。眠っているときは「自分」を敢えて感じはしないだろう。しかし起きたとたん、「今自分は布団にいる」「トイレに行きたい」などと、自分の存在が意識され始める。



肉体と自意識のほかにも自分はある。「自分のパン」「自分の鉛筆」「自分の家」「自分のお金」・・・。「自分の」とつくものの何と多いことか。物や土地、お金、車などだけではない。人間同士でも、彼氏や彼女、夫や妻、子供、親。すべて「自分の」とつく。さらに目に見えないものもある。プライドや社会的地位といったものだ。「自分の」それらを汚されたり中傷されたりすると、名誉毀損だなんて訴えたりする。そして究極には時間もそうだ。過去についてはよくも悪くも「自分の」思い出、未来は「自分の」夢。



こうして考えてくると、「自分」とは所有によって形成されている概念だと思えてくる。体だって「自分の」体である。これは所有とはいっても物を豊かに持っているかどうかで決まるものではない。そして時間という空間においても自分の所有は終わらない。少なくとも今自分が認識している自分とは、今こうして考えている自分という意識と自分の身体、そして自分以外の他者を空間的時間的に一定半径内で所有している、そこまでが自分であると認識できよう。



この考えでいくと、死ぬとどうなるか。自分の意識はおそらく消え、自分の身体は焼却され、自分に連関した「所有物」はそのつながりが絶たれる。つまりは自分だと思っていた全てが死と同時に無くなるのである。絶対的存在であった自分があっけなく消滅するのである。そうしたいずれ来る「自分の」未来を想像するから、絶対的存在の自分とあっけなく消滅する自分との矛盾的同一的存在に対して答えが導けず、それを恐怖として感じるのである。





では所有する自分は、どうやって形成されてきたのか? まずそこから考えてみたい。

生まれてきた瞬間の赤ん坊に、自分という意識はない。所有する意識もない。

親に名前を呼ばれることで、親ではない自分を認識し始める。お腹が空いたという直観によって、乳首を探し、これは「自分の」乳首だと反省し自覚が始まる。

 (注:ここでいう反省とは、西田のいう反省であり、主客が別れ、主が客を眺める状態である。それに対し、直観とは未だ主客が別れない究極の体験のことである。直観は直感ではない。そして自覚とは直観し反省する、その行為をいう。)




自分が先にあって自分が経験するのではなく、経験が先にあって自覚する行為により自分が作られるのである。



自分がいるのは相手がいるからであり、汝があってこそ我があるのである。相手がいるのも自分がいるからである。自分という存在は相手によって映し出され、相手の存在は自分に映し出される。

世界にたった一人だけの存在だったら自分という意識は発生し得ない。

そして人間のみならず、すべての動物、植物も無く、さらには岩や土や大地すらない世界に投げ出されたら、自分という意識はおそらく必要とされない。



自分という意識は、他者の存在があってこそ作られる。経験があって我があるのである。その経験とは、西田のいう純粋経験であり直観であり、弁証法的一般者なのである。そして直観こそが実在であると考えられ、その直観が働く時間的現在こそが、自分が存在しうる場所なのである。



実在を求めるのは哲学の出発点である。実在とは、あるとかないという概念ではない。この世界で一番確実なものという意味合いである。それはどちらかというと「無」であるが、それについては次稿に譲る。

デカルトは実在をコギト(「我思う。故に我あり。」の我思うのこと)に求めた。プラトンはイデアに求めた。イデアは真実在であり目には見えない。コギトは究極の反省的態度であり、主である。イデアは究極の客である。西田はそれを主客合一の純粋経験、直観に求めた。直接的事実としての純粋経験は、非反省的な意識の事実としても現れ、それが直観という事である。ベルクソンの純粋持続の概念も似ているが、純粋持続はすでに反省的である。



他者あっての自分という考えは、レヴィナスの思想も似ている気がする。レヴィナスは他者の「顔」に対する羞恥が自分を発展させると述べているが、他者を認識して生ずる自分という点では共通している。



そして、西田は自と他のどちらが先という観念ではない。自も他も現れとしては同じで、世界において同じく必要なものだ。自分は自分の中に他を映し、自分から見た他は他の中に自分を映す。さらに自分は自分をも自分の中に映している。まるで無限に世界を映し続ける鏡のように。

自分とは特別な絶対的存在ではなく、単に自己と他の世界を自己に映し出す「はたらき」をする存在だとも考えられる。



大きく考えると、自分の外に世界というものが存在するのではなく、経験される世界の中に自分はいるのであり、世界の存在と自分の存在とは同時的同一的存在である。花がきれいだと私が見ているとする。きれいだと思うのはすでに反省的態度である。実在である直観の世界においては、私が見るのではない。ただ、花という存在と私という存在の「現れ」があるのみである。経験的意識において主客合一なのであり、花が私であり、私が花なのである。もっとわかりやすい例を挙げる。地平線まで青空が広がる広い丘の上に寝そべって、澄み渡った青空を眺めていたとする。最初は空気がおいしいなとか、空がきれいだなと思っている(=反省している)。しかし次第に様々な雑念は消えていき、いつのまにか自分が青空に吸い込まれていくような感覚に捉われる。青空と一体化した感覚だ。そのときに反省的思惟は極限まで消え去っている。これが直観といえる経験で、純粋経験に限りなく近いものだ。つまり世界が私で、私が世界となる。





 ここまでをまとめる。

反省的世界において、自分とは経験によって作られる存在であり、他物、相手などの矛盾的他の存在があって絶対否定的に形成される。一方、直観的世界において、自分は世界と別個に対立的に存在する絶対的なものではなく、その実在において世界内の同一的存在の「現れ」の一つにすぎない(多の一)。自分とは直観的世界の実在的同一的自分を、反省的世界において矛盾的に経験する、その総合的な自覚の働きによって形成されると考えられる。自己に自己を映し自己に他を映す、その「はたらき」をしているのが自分であり、それはこうした自覚の働きといえるのである。



ここまでは自分の形成の過程である。

自分とは、世界の外に浮いた絶対的存在などではないと理解できる。もっと世界と一体感のある存在なのである。いいかえれば、世界と一体だからこそ生まれてきた存在だともいえる。



でもこれを理解しただけでは、死の恐怖はぬぐえない。 死んだらどうなるの?





なぜ自分は存在するのか? 存在する意義は? 

その理由がわからなければ、死ぬ意義もわからない。死の恐怖もなくならない。



それには世界の中での自分という意識の働き、役割が問題になる。

それにはまず、世界とは何か? 世界を支配する法則を知る必要がある。



そして所有するという意識の概念、世界における自分と他者との関係などについても知る必要がある。



所有するということは、所有されるものへ働きかけることでもある。(所有されるものという相手があってのことであるのは、もはや云うまでもない。) 「自分」はあらゆるものへと働きかけを行い、所有するものと所有しないものを認識する。この働きかける力というのが実はとても大切だ。なぜ働きかけるのか?



ここからは西田が明確にした、「場所」という重大な観念がヒントになる。

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プロフィール

ドクトル・グレイ

Author:ドクトル・グレイ
ドクトル・グレイ(愚零) (KIN 191:青い猿、青い夜)

小学生の時、鏡を見ていた自分が忽然と思った。
「自分が死んだらこの世から消えてしまう。消えてしまう自分とはいったい何なんだろう。」
以来、わたしは「大人」になった。分別知が芽生えたのである。それは無分別の世界に遊んでいた子供の楽園から、不幸の滝壷に突き落とされた瞬間でもあった。
生死の不安、明日の心配・・・
悩みはつきることなく湧き出でたが、解決の糸口はつかめなかった。
何のために生きているのか?
他の生き物を傍若無人に虐殺してまで、人間は何のために生きるのか?
将来必ず死ぬことが、わかっているではないか。
高校生の時、西田幾多郎の著作に出会った。
「絶対矛盾的自己同一」
なんだかよく分からなかったが、そこには答えとなる真理が隠されているように感じた。
いったい自分は、人間は、何を知っているというのだ。
そもそも知るという認識の過程から考え直さなければならないのではないか。
自分のことを自分が一番良く知っていると思っている。
そんなのウソだ!
自分とは何か、他とは何か、生きるとは、死ぬとは、自然とは、宇宙とは、神とは何か?
人知に照らされたこの世界。
人知に掘られた井戸の中の蛙である人類、わたし。
宇宙の果てを井戸の中に探しに行くアホらしさ。
カマキリやチョウが、明日に死ぬ心配をしているか?
相対と絶対。
不連続の連続。
少しずつ答えの入り口が見えてきた。
何も知らずしてすべてを識り、時空を知らずしてすべてを識る。
科学は無智であり、自然は無知である。
鏡に映った自分は、自分の知っている自分ではなかった。
人知による分別世界は相対世界。
相対世界は虚相世界。
虚相世界の生死、それは結局、蜃気楼。
人知の懐中電灯を消せば、薄暮に浮かぶ無限的広野が眼前に広がっていた。
真実の実相世界は無分別の智、それは絶対無。
不安、恐怖、対立、争闘・・・
虚相世界のすべての現象、それは絶対無において一縷の疑問もなく消滅した。
探し物は、遠い未来にも遥かなる宇宙にもなかった。
永遠は今この瞬間にあり、無限は目の前の一点にあった。
ごはん一粒に、無限宇宙と深遠なる神を見る。
知らない自分はすべてを識る。
自分は自然、自分は宇宙、自分は神、そして絶対無の存在。
本当の歓び、本当の愛。
あえて言葉で云うならば、絶対的歓喜と絶対的大愛に満ち満ちた世界。

人類よ、前へ進むな、振り返れ!
人類よ、今こそ行こうぞ、絶対無へ!


(KINについては、以下の「古代マヤ暦の暗号」を参照のこと)

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