ビオトープ第1歩

とりあえず水辺を作った。
まだボウフラや青藻は繁殖していない。
もうしばらくしたら、メダカやタニシを投入する。
どんな生き物が住み着いてくれるか楽しみだ。
完成までにはもう数週間かかる。
ちなみにビオトープ(水辺)は都会でもできる。
庭がないとできないと諦めるのは早い。
水辺の推進は都会でこそ実践していきたいことである。
睡蓮鉢ならしゃれているが、水が漏れない容器なら何でも良い。
以下のページを参考にしてみてください。
皆さんも自然が喜ぶ生活を始めませんか?
美しきわが「兄弟」たち

トンボの名前は詳しくない。ゴメンな、今度調べておくね。

人間用にスープセロリを植えておいたら、いつのまにかキアゲハ君がむしゃむしゃ。きょうは5匹もお食事中でした。そっとしてあげましょうね。

なにやら不穏な空気が。蟷螂と書いて、カマキリと読みます。まさに必殺のカマです。大変気の強い虫で、人間が目も前に来ても睨み返してきます。幼虫も食べてしまうし、産卵中のアゲハチョウまで捕まえて食べてしまいます。ちょっと残念だけどカマキリも必死なので、見守っています。

朝もジャコウアゲハが羽化しました。メスですね。写真は、保護している「羽化場」の一コマ。

ハキリバチがきれいに丸く葉を切って運んでいったあと。芸術的です。コンパスでも持っているのでしょうか。

クスノキの幼木に座っていたアオスジアゲハの幼虫。愛嬌がありますね。

ハマセンダンの木陰で休憩中のアマガエル。ほとんどは緑色なのですが、この子はクリーム色でした。

定番のナミアゲハ。ナミといってもbakaにしてはいけません。彼が居れば自然の健康状態の目安になります。
旅立ち
8月21日、義祖母、他界。 82才の誕生日を迎えた翌日。
今まで病気をしたことがない人が、初めてした病気は死に至る病であった。
現代医療の恩恵をまったく受けることなく、一生を終えた。
また一人の命がついえていった。
こないだまで、元気に笑い、朗らかに話し、しっかりした足取りで歩いていた人が、きょうという日を境にこの世から消失した。すでに動かない肉体は、焼却され塵と化す。
「私」にとって「義祖母」、「私」にとって「あなた」という二人称的存在はどこに行ってしまうのか。
そもそも「私」とは何? 「あなた」とは何?
もし生きていることに意味がないというのなら、あまりにも悲しすぎる。
10年前の私なら、そうも言ったであろう。
しかし、今はそうは思わない。
私が尊敬する人物。
高村光太郎ともう一人、西田幾多郎。
今、西田を読み直している。昔の記憶とは大分異なって感じる。
変わったのはわたしの「心」なのだろう。
「自己の中に自己を映す」
自己が変われば感じ方も変わる。
ヘーゲルでもフッサールでもない。
サルトルでもハイデガーでもない。
我が日本の西田の思想は、「悲しみの檻」を開く鍵となるかもしれない。
その断固たる燃ゆる思想、悲しみの哲学、生命の哲学に、私の解釈を映しつつ追求していきたい。
アーメン。
友情?
おや?
何か指にふれる。シャンプーが目に入るので、目は開かない。
構わず、髪を洗って・・・
終わってから視線をふとバスタブに移すと、「ピョーン」と跳ねるものが・・・。
おまえさんかい。
ずっと髪の毛にしがみついていたのかい?
服を脱ぐときにもよく振り落とされなかったね。
よしよし。
両手で作った空間にしっかり包み込み、また草叢に放したのであった。
アンガジュマン
サルトルはこう云った。
サルトルは実存主義者である。かつてプラトンやトマスは、本質が存在に先立つと考え、この考えは長きに渡って支持されてきた。しかし19世紀に入り、ハイデガーやフッサールに始まり、サルトルらによって、実存主義の哲学が花開いたのである。
実存は本質に先立つ。本質を論ずるよりも先に、実際の存在が存在している。人間は気付いたら、いつのまにかこの世に存在していたのであって、生まれてくる前から自分という本質が決められていたわけではない。
そして本質が決められていない以上、自分という存在を意識する対自存在である人間は、もともと自由な存在である。しかし自由であることは、決められた線路ががあるわけではなく全て自分で考えて、「投企」行動をとらなくてはならないので、ある意味心細く不安なものと認識される。人は自分の存在に気付いたら、その存在は限りなく自由なものであった。自由という底なし沼は、考えれば考えるほど、抜けられぬ深みにはまっていく。恐怖でもあり、苦悩でもある。
地球は苦悩の星である。それは、存在そのものが元来自由であるからなのかもしれない。
サルトルはその自由から逃げてはいけないと説いている。
誰かを真似たり、多数派に鞍替えしたりするのは、意思の主体性や自らの決断を放棄した「自由からの逃走」であると述べている。自由というやっかいな荷物を背負い、不安を抱えながらも、未来の自分を決める投企を日々していかなくてはならない。
そしてサルトルは、その自由の恐怖から救われることこそ、アンガジュマン(engagement)であると考えた。
アンガジュマンはその英語通り、契約、社会参加のためのルール、自己拘束といった意味である。
自分の未来は自分で選択する以上、自ら責任を持ち、また社会や人類の未来に対しても同時に責任を持たなくてはならない。人間は単に自由の魔の手に弄ばれるだけではなく、その自由に手綱を引くことで自由を制御し、自由を乗りこなさなくてはならない。それが自由という暴れ馬からの恐怖を取り除く手段であり、そのためには実存である自分も他者も、共通のルールの下に拘束し合い生きていくことが必要である。
自由への恐怖、それはつまり、考えれば考えるほどはかない「生きている」ことへの恐怖ともいえる。
その恐怖からの解放は、社会参加であり、世人一定のルール、アンガジュマンによってのみ成し遂げられると彼は考えた。
なるほど、よく理解できる。
しかし解決の鍵を、社会参加と守るべき義務やルールに求めたのは、納得しかねる。戦争が絶えない世情不安の時代から、人としての倫理観を問いただしたかった事と思うが、生への底知れぬ恐怖(サルトルのいう自由の刑)は、アンガジュマンなどでは本質的な解決は不可能と考える。アンガジュマン、社会参加ですら、私には「自由からの逃走」であると思える。
人はなぜ、毎日毎日息を吸い、物を喰らい、寝息をかいて生きていくのか。
なぜ毎日毎日食事の準備に明け暮れ、ほっと息をついては時計を見るのか。
はかなくも悲しくも、生き物としての永遠の宿命であるその事実を、納得の行く説明で解決したい。
そのときこそ、本当の命の意味、死の恐怖からの解放、真の存在への超越が可能になるであろう。
純粋持続の自分と今
それをベルクソンは「純粋持続」と云った。
純粋持続こそ自我であり、純粋持続における「イマージュ」が自らの実存の証明である。
イマージュとは動的な対象に対する、わが心の反応である。
そこに純粋持続で解決できない事象が発生し、「エラン・ヴィタール」(生命の跳躍)が起きる。
宇宙も純粋持続であり、常にエラン・ヴィタールで流動的に躍動をしているのだ。
確かにその通りだ。
人間の意識(心)は絶えず流動し躍動を続けている、それは理解できる。
しかし、なぜ生きるのか、その説明はここにはない。
純粋持続だけが自我ではない。過去の記憶がなくても、極端に言えば記憶喪失になったとしても、「自分」という自我の概念は存在する。「自分」は過去から未来へ、空間から空間へ、その意識を移動飛躍させることができる。もちろん、その肉体の外周で外界から区切られたその体積も、「自分」の基準として認識されている。
問題は、その「自分」を認識する「自分」は何なのかということ。
そしてその認識する「自分」は、なぜ必ず死ぬとわかっているのに、同じ毎日を死ぬまで忠実に生きていくのかということ。
色々な「楽しみ」と感じることを人生において見出したとしても、毎日毎日食って寝て、年を重ねていくのは皆同じ。「楽しみ」という変化を求めていても、その宿命からは誰も逃れられない。きょうの笑顔の輝きもいずれ過去のものとなり、人は皆骨になるのだ。笑顔を見れば見るほど、わが心には悲しみが表出する。それは強大な宿命の前に呆然とたちすくむ笑顔のはかなさを、感じずにはいられないから。
それが人生、などという言葉では片付けたくない。
笑顔と幸せを覆う、悲しみの檻・・・。